詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

秋亜綺羅「十二歳の少年は十七歳になった」

2016-03-09 08:57:06 | 詩(雑誌・同人誌)
秋亜綺羅「十二歳の少年は十七歳になった」(「朝日新聞」2016年03月08日夕刊)

 東日本大震災からもうすぐ五年。それにあわせて詩人、歌人、俳人が作品を書いている。秋亜綺羅は「十二歳の少年は十七歳になった」を書いている。
 タイトルのなかに「五年」が動いている。「たつ」という「経過」ではなく「なる」という動き。「なる」には、「たつ」よりも前へ進む力が籠もっているように感じる。その「たつ」と「なる」の違いは詩のなかでどう書かれているか。

季節よ、城よ
無傷なこころがどこにある
とランボーは書いている

海が目の高さまでやって来て
握っていたはずの友だちの手を
離してしまった瞬間から
きみの時間はずっと止まったままだ

凍えていたね手と足と
おにぎりも飲み水もなかった淋(さび)しさと
叫びたかったおかあさんということば
泣くことも忘れていた吐息の温度と
暗闇に海の炎だけが映る瞳と
ぜんぶ拾い集めたらきみになるかな
きみは歩き出すかな

動かない時計だって宝物だね
けれどきみがいま秒針を動かせば
時間はきっと立ち上がる
空間はすっときみを抱きしめる

どんな鳥だって
想像力より高く飛ぶことはできない
と寺山修司はいった

傷はまだ癒えていないけれど
今度はきみが
青空に詩を描く番だ
 
 「きみの時間はずっと止まったままだ」からは「たった」ということばを引き出すことができる。「止まる(止まった)」一瞬から「五年たつ」というとき、視線は「過去」をふりかえる。「いま」から「過去」を見つめるとき「時間がたつ」という言い方をすると思う。
 その「一瞬」は「握っていたはずの友だちの手を/離してしまった瞬間」と書かれているが、「時間が止まる」とどうなるか。
 「瞬間」は短いものだが、その「短い」ところに、いろいろなもの/ことが集まってる。そして、その「瞬間」を「短い/小さい」けれど、とても「重い」ものにかえてしまう。
 三連目は、「瞬間」へ押し寄せてきた「重い」あれこれである。「友だちの手を/離してしまった瞬間」に、その後のあらゆる「瞬間」が重なる。「凍えていたね手と足と」、あるいは「おにぎりも飲み水もなかった」と違うことばで語られるから、それは違ったもの/こと、別々のもの/できごとであるはずなのだが、「きみ」には「ひとつ」に感じる。「ひとつ」の同じ「瞬間」のもの/できごとである。
 それは違うことばで語られたとしても「ひとつ」の同じ「瞬間」である。
 そこに書かれていること/もののなかに「時差」があったとしても、それは「物理的な時差」にすぎない。「きみ」自身にとっては「時差」はない。
 そういうことを書いたあと、

ぜんぶ拾い集めたらきみになるかな

 ここに、タイトルの「十二歳の少年は十七歳になった」につかわれているのと同じ「なる」という「動詞」がある。
 ここから詩は動く。ことばは動くのだが、その前に、ここに書かれている「なる」について、もう一度、読み直してみたい。考え直してみたい。

凍えていたね手と足と
おにぎりも飲み水もなかった淋(さび)しさと

 とりあえず二行だけを引く。この二行で書かれていることは、先に書いたように、ある「瞬間」を別なことばで書いたものだ。「瞬間」を「分節する」とそういう形になる。あらゆることはさまざまに「分節する」ことができる。ある状況から「何を」分節することで、その状況を語るかはひとによって違う。人によって違うが、「分節される」状況は「ひとつ」である。
 大震災を「肉体」で体験した。そのとき「時間」は「止まった」。この「時間が止まった」もひとつの「分節」の仕方だが、それをさらに「分節」しなおしたものが三連目である。「凍えていたね手と足」だけでは足りない。言い切れない。「おにぎりも飲み水もなかった淋(さび)しさ」だけでは「分節」しきれない。「……と」「……と」と「と」をいくらつないでみても、まだままた「分節する」必要がある。だから次々に「分節する」。それが三連目。
 その「分節した」さまざまの、その「ぜんぶ」を「集めたら」、「分節されている状況」が全体像として浮かび上がるか。「きみ」の体験したこと、考えたこと、感じていること、思想の「全体」になるか。
 これは、答えを出すのがむずかしい。
 だいたい「分節する」「分節される」というのは、言い方としては二通り、能動と受け身に分類できるが、「分節する/分節される」は「ひとつ」の「状況」のなかでかたく結びついていて、はっきりとは分けることができない。「分節しない限り/分節されない」。そういうもの/ことだからである。
 「集める」だけでは、だめなのだ。「なる」にならないのだ。「分節する」だけではだめということにもなる。
 「なる」になるためには、「歩き出す」という動きが必要なのだ。

 「いま」という地点からふりかえり「止まった時間」を見つめ、それに「物理的(?)」な数字を割り振って「五年たった」という限りは、果てしない「分節する/分節される」あの「瞬間」があるだけなのだ。
 「きみ」に「なる」ためには「歩き出す」しかないのである。

 「歩き出す」は、しかし、私には簡単には言えないなあ。「きみ」に「歩き出せ」と、私にいうことはできない。「きみ」が「歩き出す」なら、私はそれをみつめることはできるが、「歩き出せ」とは言えない。
 それが、たぶん秋亜綺羅と私の違い。
 秋亜綺羅は実際に東日本大震災を体験している。だから「きみがいま秒針を動かせば」ということができる。このとき、もちろん「きみ」とは誰か第三者ではなく、秋亜綺羅自身だ。
 「歩き出す」とき、秋亜綺羅(きみ)は時間そのものに「なる」。時間は、そこから「生まれる」。
 その「体験」を秋亜綺羅は、

時間はきっと立ち上がる
空間はすっときみを抱きしめる

 と言い直している。
 「時間」は「たつ(経つ)/過ぎる」のではない。「時間」は「立つ」。そして「上がる」。
 「時間」は「水平」に「流れる」という形で、しばしば「一本の線状(直線)」に書かれるが、その水平の流れを突き破って「立ち/上がる」。垂直に動く。この水平と垂直の交差から、次の「空間」ということば、「立体」が生み出されているのだが、こんなことを書いていると面倒なので、そこには踏み込まずに……。
 「時間になる」「時間を生み出す」ということろに、引き返してみる。そこから、もう一度、考え直してみる。

凍えていたね手と足と
おにぎりも飲み水もなかった淋(さび)しさと

 そういう、もの/ことを「集める」と「きみ」に「なる」か。
 きっと「ならない」。「きみ/だった」という「過去の瞬間」が凝縮するだけである。「分節する/分節される」という「未分節の時間」が、「きみ」の目の前に横たわるだけだ。動かない時間が、「きみ」を妨げるだけだ。
 それは、また「傷ついている/きみ」を語るだけだ。(「傷ついている/きみ」を語るだけというのは、別な言い方をすると「傷つくことで守られている/負傷者として定義づけられている」になり、そう書いてしまうと、うーん、きっと乱暴すぎる言い方であり、ひとつの暴力になってしまうけれど……。)

 うまく書けないので、飛躍して書いてしまうが。

傷はまだ癒えていないけれど
今度はきみが
青空に詩を描く番だ

 これは「傷つく」から「傷つける」への変化促しているのだ。三連目のさまざまに「分節された世界」は「きみ」のさまざまな「傷」を書いている。「傷ついたきみ」を書いている。しかし傷ついたままでは、だめ。「傷つく/傷つけられる」の「傷つけられる」から「傷つける」へと動いていく。これが「歩き出す」。
 大震災、津波が「きみ」を「傷つけた」、「きみ」は大震災、津波によって「傷つけられた」。そこに「傷つける/傷つけられる」という関係があるが、このときの「主語」を入れ替える、あるいは「動詞」を入れ替えることが必要なのだ。
 「傷つけられた」ものだけが、「傷つける」ことができる。傷つけられた、その傷の深さを知っているからだ。「肉体」が覚えているからだ。
 「きみ」を「傷つけた」大震災を、津波を「傷つける」ことによって、いままで存在しなかった「時間」が「動く」。
 このとき「傷つける」というのは、もちろん「想像力(ことば)」の仕事である。実際(物理的に)に人間が津波を「傷つける」ということはできない。しかし「想像力」でならできる。「想像力」にできないことはない。だからこそ寺山修司のことばを含む三行が書かれている。秋亜綺羅が信じているものがあるとすれば、そこに書かれている寺山修司のことば(想像力)である。
 「歩き出す」とは「想像力」を生きること。「飛ぶ」ではなく「歩き出す」ということばが選ばれているのは、秋亜綺羅が「鳥」ではなく「人間」だからである。「鳥」よりも高く飛ぶ「想像力」、「人間」よりも強く歩き出す人間の「想像力」。「想像力」としての「人間」。
 このとき新しい「時間」が生まれる。
 「きみ」は「きみだった」をふりきって、「きみになる」。そういうことをするのが「詩」の仕事だ、「想像力」の仕事だ、と秋亜綺羅は自分自身に言い聞かせている。「きみの番だ」は「秋亜綺羅の番だ」ということである。
 なぜ「十二歳の少年」から「十七歳の少年」に「なる」のか。単に「五年」という経過をあらわすのなら、「十一歳の少年」から「十六歳の少年」でもかまわないはずだ。けれど、秋亜綺羅は「十七歳」にこだわっている。それはきっと秋亜綺羅が「詩人になった」年齢なのだ。詩を書きはじめた年なのだ。その「出発点」にいる「きみ/秋亜綺羅」自身、「十七歳の秋亜綺羅」に向かって、秋亜綺羅はこの詩を書いているのだと思った。


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秋亜綺羅
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