詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ネメシュ・ラースロー監督「サウルの息子」(★★★★)

2016-03-07 19:17:50 | 映画
監督 ネメシュ・ラースロー 出演 ルーリグ・ゲーザ

 これはとてもつらい映画である。内容もそうだが、私のように目の悪い人間には肉体的にも非常につらい。
 冒頭、ピンボケの、ぼんやりした画面があらわれる。映写ミス? 画面の奥から人間が歩いてくる。だんだん形が定まってきて、顔のアップ。そこで「焦点」があう。主人公のサウルなのだが、彼の顔以外はピンボケである。彼の顔(と、その周辺のかぎられた部分)にのみ焦点があたっている。背景はピンボケである。
 ネメシュ・ラースローは、何よりも主人公の「顔」、その「表情」の奥にあるものを描きだしたいのだ。その気持ち、意欲はとてもわかる。わかるけれど、これは目の悪い人間には大変な苦痛である。周囲のピンボケ部分も当然目に入ってくる。そうすると、そのピンボケの部分をなんとかはっきり見ようとして目がいつも以上に動く。ピンボケは目のせいだと「脳」が判断し、視神経を動かそうとするのである。これが、非常に疲れる。途中で吐き気がするくらいにまで、「脳」が混乱し、悲鳴を上げる。
 普通の視力の人は、どうだったのだろう。

 さて、作品そのものだが……。
 サウルはガス室で生き延びた少年をみつける。瀕死である。少年は口をふさがれて死ぬ。解剖されることになる。その少年は主人公の息子だった。サウルはガス室にユダヤ人を送り込み、その死体を処理する仕事をしているのだが、息子を見て、なんとか埋葬したいと思う。
 ここからサウルは、その「自分の願望」しか見えなくなる。ほかにユダヤ人がいて、その人たちは何とか死から逃れたいと思っていることなど、見えなくなる。解剖する予定の医師に、解剖はやめてくれ、と頼む。埋葬するために、「ラビ」をさがす。そのために自分の管轄外の「班」にもぐりこむ。ラビを見つけて、強引に自分の「願望/欲望」を打ち明ける。
 サウルの気持ちは、もちろん相手につたわる。しかし、「埋葬」を手伝うことは、自分自身の死につながる。「埋葬」は禁じられている。殺して、焼いてしまう、というのがそこでの決まりである。決まりを破れば殺される。
 そういう「個人的」な「願望」、サウルの行動と平行して、収容所からの脱出を試みる集団が描かれる。なんと、そのなかには、収容所で起きていることを「記録」する人間もいる。虐殺の証拠写真を撮ったりしている。とても意識が高い。ここで起きていることを許さないという強い気持ちがある。サウルもその一員である。一員なのだが、どうしても「集団」の仕事よりも、自分自身の「願望」が優先してしまう。そのために、脱出に必要な爆薬を落としてしまうというようなことも起きる。しかもそれはラビだと名乗る男を救おうとする過程で起きる。さらに悪いことに、その男はラビではなく、ラビだと言えば助かる可能性があると思って、そう言っただけなのだ。埋葬しようとしても、そのとき祈りのことばを言うことができない。
 こういうことが、色彩のほとんどない映像で、しかも「押し殺した感情」をぐいぐいと押しつけるような形で展開される。登場人物全員が「押し殺した感情」を「ことば」ではなく「顔/目の力」で押しつけ合う。「自分の仕事」をしろ、「生き延びろ」というわけである。だからいったん脱出すると、脱落しそうになるサウルを助けたりもする。サウルは息子の遺体を逃げる途中で河に流してしまうが、その失意のサウルを仲間は助けながら泳ぎもするのである。「ことば」ものなく。
 映画はたしかに「ことば」がなくても成立するし、「ことば」が少ない方がおもしろいものだが、この映画は、あまりにも「顔」で「ことばにしないことば」を発しすぎる。それが、あまりにも鋭く、激しく、強い。目の奥(網膜)に、度の強い眼鏡をかけたときよりもさらに鋭利な感じで「ことばにしないことば」を刻み込む。
 ラスト。逃走の途中、森の中で休むサウルら。開いた入り口の向こう、森の中から少年がサウルたちを覗きこむ。少年に気がつくのはサウルだけで、ほかの人は気がつかない。サウルと少年はほほえみあう。少年を見て、サウルの顔がゆるむ。はじめてサウルが「感情」を他人と共有するシーンである。少年は森の中へ消えてゆき、背後で銃が乱射される音がする。あの少年は、ほんとうにいたのか。それともサウルの見たまぼろしなのか。それは、わからない。サウルが死ぬ前に、やっと微笑むことができた。それだけが救いの映画である。ただし、涙は流れない。悲しみというのはいつでも「カタルシス」だが、ホロコーストにはカタルシスはないからだ。
                      (KBCシネマ1、2016年03月06日)




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三角みづ紀『三角みづ紀詩集』(3)

2016-03-07 12:14:48 | 詩集
三角みづ紀『三角みづ紀詩集』(3)(現代詩文庫206 、2014年08月25日発行)

 三角みづ紀は「現代詩手帖」の「投稿欄」に書いていた。池井昌樹と福間健二が選者。池井が三角に最初に注目し、「一席」に選んでいる。これは、私には衝撃的なことである。私は池井昌樹の詩を中学生時代から知っているが、その池井の詩から感じるものと三角の詩から感じるものが、私のなかでは大きく隔たっているからだ。三角は「ギスギス」、池井は「ぶよぶよ」が私の第一印象だ。
 池井が「谷内六郎の絵が好き」というのも、私のなかでは、どうもうまく結びつかない。谷内六郎の絵は、私は嫌いである。線と色のバランスが嫌いである。ギスギスしている。
 池井は、その「ギスギス」を「ナイーブ」と見ていたのか、ということが、詩集のあとの方に収められている「生(いのち)の真珠(たま)」という文章からわかった。「ギスギス」を池井はまた「ヒリヒリ」とも書いている。私の感じる「ギスギス」を「ヒリヒリ」と読んでいるように思える。
 うーん。
 繰り返しになるが、私の印象では、池井は「ぶよぶよ」であって「ヒリヒリ」ではない。いまの池井は違うが、私が最初に会った池井は太っていて「ぶよぶよ」していたし、中学生のときの詩は、「ぶよぶよ」の気持ち悪さに満ちていた。谷内六郎の「ギスギス」の気持ち悪さの対極にあった。
 こんなことは、どうでもいいことかもしれない。
 しかし、どうにも私には不思議なのである。池井が三角の詩に魅了されたということが。だが、池井には感謝しないといけない。池井が三角の詩を選ばなかったら、私は三角の詩を読むことはなかっただろう。読んだとしても、感想を書くことはなかっただろう。

 池井が最初に選んだ詩を読んでみる。「八月十五日」。

投じられた知らせ
酒と安定剤での彼女の自殺
私は
無感動
明け方に人として産まれたことに泣く
七夕飾りが風に揺れ
教会にて舞う白布
舞う白布と漂う聖歌
そういえば黙祷の鐘は鳴らなかった
カメラのレンズは壊れたままだった
薬が効くまでの私には
お願いだから誰も話しかけないで

(加われなかった着物の参列を想うそしてそれを浮腫の所為にする)

それだのに私は未だ
焼け跡で子供達にまじり
ばらまかれるチョコレイトを欲しているのだ

 この詩に対して、池井は「三角さんの詩は飽くまでも己のためにのみ刻されるもの。」と書いたあと、次のように書いている。

三角さんの詩にはもうひとつ重要な特徴があります。他者の痛みと深く繋がっているのです。殊に最終三行には闇に潜む研ぎ澄まされた魂の嘆きを想いました。みずからの最深部に棲む神様への渾身のうちあけは、他者の最深部に微睡む神様をも呼び覚ますのですね。

 「他者の最深部に微睡む神様をも呼び覚ますのですね。」は「池井の最深部に微睡む神様をも呼び覚ま」した、という意味になるか。私は「魂」「神」というものが存在すると想わないし、感じたこともないので、こういう感想には何の反応もできない。ただし「人間の最深部」を「魂」と呼んでいるのだとしたら、その「最深部」に関しては、いくらか感じるものがある。
 そのことにつまくつなげられるかどうかわからないが……。
 私はこの詩を次のように読んだ。
 
 この詩には「彼女」「私」「子供達」が登場する。最終連の「私」は「子供達」に混じっているのだから、「私」と「子供達」のあいだに区別はない。「私=子供」と言えるだろう。「彼女」と「私」の関係は簡単には特定できないが、私はこれまで読んできた詩と同じように「彼女=私」と読んだ。
 二行目で「彼女の自殺」と書かれている。そのことばどおりだとすると「彼女」は死んでいるのだが、私には死んだとは感じられない。自殺を図ったが、未遂に終わったということだと思う。

明け方に人として産まれたことに泣く

 は、未遂に終わって「明け方」に目覚め、「死ねなかった」と気づき、泣いているのだろう。「無感動」なのは「失敗した/未遂に終わった」という「失意」が動くからだろう。この「失意」が引き起こす世界との断絶、接続感の欠如が、「人として産まれた」は不思議な言い方につながる。「生まれた」ではなく「産まれた」なのは、「人を産んだ」という意識がまじっているからだろう。自分で「産み」、そして「生まれ変わった」のだ。
 ここに「彼女」と「私」の切断と接続がある。切断しながら接続する、接続することが切断するとも読むことができる。
 区別がない。あるいは区別して考えることをやめる、という積極的な要素があるかもしれない。どちらもほんとうなのである。「感動(感情の動き)」を排除、拒絶して「事実」と向き合っているのだろう。
 そのとき「世界」の方はどうなったか。「事実」として何が起きているのか。何が動いているのか。
 いろいろ読み方はできるだろうが「鳴らなかった」「壊れたままだった」ということばに目を止めるならば、いつもと同じ「持続」が、そこに見える。「揺れる」「舞う」「漂う」という動詞がそれに先行して動いているが、それは変化ではなく「なかった」「ままだった」へとつづき、「持続」をあらわしている。
 「世界」はかわらない。「私」のなかには「かわる」ものと「かわらない」ものがあるが、世界は「かわらない」。
 これを「私」にしぼって、「私」から見つめなおす形で言い直すと……。「私」のなかの「彼女」が「私」を「産み」、「私」が新しく「産まれる」が、そこには同じように「持続」がある。「接続」は「持続」という形で存在する。

薬が効くまでの私には
お願いだから誰も話しかけないで

 この「薬」は「安定剤」である。だから「私」というのは「彼女としての私」である。その「彼女」が「自殺=完全に死ぬ」まで、「産む/産まれた新しい人間=私」に話しかけないで、「私」のなかで「切断」が明確になるまで待ってということだろう。
 そう訴えかけながら、「私」は一方で(加われなかった……)ということ思っている。「参列」は「葬儀への参列」だろう。「浮腫の所為にする」は、奇妙な言い回しだが、「葬儀への参列」という欲望を「肉体」のなかに抱え持つということだろうか。「自殺未遂」の傷を「肉体」のなかに「持続」させるということだろうか。
 そのような形で「産み/生まれた私」は「子供」である。「おとな」ではない。まだ「おとな」になっていない。「焼け跡」は「戦後」を思い起こさせるが、それは「現実」の戦後ではなく、「自殺/自殺未遂」後の、「精神/肉体」の戦いのあとの一種の「無」の状況をさすのだろう。「子供」はひとりではなく「子供達」であるのは、三角がそういう「産み/生まれる」を「私」として知っているだけではなく「彼女」でもありうると知っているからだろう。「ひとり」ではなく「複数」。
 ここに池井の言う「他者」とのつながりがあるのかもしれない。
 ただし、私は「チョコレイトを欲してる」という「戦後の子供達」に結びつけられた「動詞」にとても疑問を感じている。その「ギブ・ミー・チョコレイト」といっしょにある「戦後」を三角のものとは思えないからである。「焼け跡」という比喩が「戦後」という比喩、「チョコレイト」をひっぱり出したのかもしれないが。
 「他者の痛みと深く繋がっている」というよりは「他者の痛みを深く頼っている」ということなのかなあ、と私はむしろ逆に思ってしまう。「他者の痛み/痛みとしての他者の存在」が、このころの三角を支えていたのかもしれない。
 そこに「ヒリヒリ」するような「不安」がある。
 これは、私は「苦手」だ。私はそういう「不安」に巻き込まれるのが怖いので、思わず身を引いてしまうなあ。そういう「怖さ」へずぶずぶ(?)と接近していくことができたのは、やっぱり池井が「ぶよぶよ」の人間だからかなあ。「ぶよぶよ」がどこかで池井がほんとうに傷つくことから守っているような気もするのである。
 なんだか変な感想になってしまった。

舵を弾く
三角 みづ紀
思潮社

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