監督 ネメシュ・ラースロー 出演 ルーリグ・ゲーザ
これはとてもつらい映画である。内容もそうだが、私のように目の悪い人間には肉体的にも非常につらい。
冒頭、ピンボケの、ぼんやりした画面があらわれる。映写ミス? 画面の奥から人間が歩いてくる。だんだん形が定まってきて、顔のアップ。そこで「焦点」があう。主人公のサウルなのだが、彼の顔以外はピンボケである。彼の顔(と、その周辺のかぎられた部分)にのみ焦点があたっている。背景はピンボケである。
ネメシュ・ラースローは、何よりも主人公の「顔」、その「表情」の奥にあるものを描きだしたいのだ。その気持ち、意欲はとてもわかる。わかるけれど、これは目の悪い人間には大変な苦痛である。周囲のピンボケ部分も当然目に入ってくる。そうすると、そのピンボケの部分をなんとかはっきり見ようとして目がいつも以上に動く。ピンボケは目のせいだと「脳」が判断し、視神経を動かそうとするのである。これが、非常に疲れる。途中で吐き気がするくらいにまで、「脳」が混乱し、悲鳴を上げる。
普通の視力の人は、どうだったのだろう。
さて、作品そのものだが……。
サウルはガス室で生き延びた少年をみつける。瀕死である。少年は口をふさがれて死ぬ。解剖されることになる。その少年は主人公の息子だった。サウルはガス室にユダヤ人を送り込み、その死体を処理する仕事をしているのだが、息子を見て、なんとか埋葬したいと思う。
ここからサウルは、その「自分の願望」しか見えなくなる。ほかにユダヤ人がいて、その人たちは何とか死から逃れたいと思っていることなど、見えなくなる。解剖する予定の医師に、解剖はやめてくれ、と頼む。埋葬するために、「ラビ」をさがす。そのために自分の管轄外の「班」にもぐりこむ。ラビを見つけて、強引に自分の「願望/欲望」を打ち明ける。
サウルの気持ちは、もちろん相手につたわる。しかし、「埋葬」を手伝うことは、自分自身の死につながる。「埋葬」は禁じられている。殺して、焼いてしまう、というのがそこでの決まりである。決まりを破れば殺される。
そういう「個人的」な「願望」、サウルの行動と平行して、収容所からの脱出を試みる集団が描かれる。なんと、そのなかには、収容所で起きていることを「記録」する人間もいる。虐殺の証拠写真を撮ったりしている。とても意識が高い。ここで起きていることを許さないという強い気持ちがある。サウルもその一員である。一員なのだが、どうしても「集団」の仕事よりも、自分自身の「願望」が優先してしまう。そのために、脱出に必要な爆薬を落としてしまうというようなことも起きる。しかもそれはラビだと名乗る男を救おうとする過程で起きる。さらに悪いことに、その男はラビではなく、ラビだと言えば助かる可能性があると思って、そう言っただけなのだ。埋葬しようとしても、そのとき祈りのことばを言うことができない。
こういうことが、色彩のほとんどない映像で、しかも「押し殺した感情」をぐいぐいと押しつけるような形で展開される。登場人物全員が「押し殺した感情」を「ことば」ではなく「顔/目の力」で押しつけ合う。「自分の仕事」をしろ、「生き延びろ」というわけである。だからいったん脱出すると、脱落しそうになるサウルを助けたりもする。サウルは息子の遺体を逃げる途中で河に流してしまうが、その失意のサウルを仲間は助けながら泳ぎもするのである。「ことば」ものなく。
映画はたしかに「ことば」がなくても成立するし、「ことば」が少ない方がおもしろいものだが、この映画は、あまりにも「顔」で「ことばにしないことば」を発しすぎる。それが、あまりにも鋭く、激しく、強い。目の奥(網膜)に、度の強い眼鏡をかけたときよりもさらに鋭利な感じで「ことばにしないことば」を刻み込む。
ラスト。逃走の途中、森の中で休むサウルら。開いた入り口の向こう、森の中から少年がサウルたちを覗きこむ。少年に気がつくのはサウルだけで、ほかの人は気がつかない。サウルと少年はほほえみあう。少年を見て、サウルの顔がゆるむ。はじめてサウルが「感情」を他人と共有するシーンである。少年は森の中へ消えてゆき、背後で銃が乱射される音がする。あの少年は、ほんとうにいたのか。それともサウルの見たまぼろしなのか。それは、わからない。サウルが死ぬ前に、やっと微笑むことができた。それだけが救いの映画である。ただし、涙は流れない。悲しみというのはいつでも「カタルシス」だが、ホロコーストにはカタルシスはないからだ。
(KBCシネマ1、2016年03月06日)
*
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これはとてもつらい映画である。内容もそうだが、私のように目の悪い人間には肉体的にも非常につらい。
冒頭、ピンボケの、ぼんやりした画面があらわれる。映写ミス? 画面の奥から人間が歩いてくる。だんだん形が定まってきて、顔のアップ。そこで「焦点」があう。主人公のサウルなのだが、彼の顔以外はピンボケである。彼の顔(と、その周辺のかぎられた部分)にのみ焦点があたっている。背景はピンボケである。
ネメシュ・ラースローは、何よりも主人公の「顔」、その「表情」の奥にあるものを描きだしたいのだ。その気持ち、意欲はとてもわかる。わかるけれど、これは目の悪い人間には大変な苦痛である。周囲のピンボケ部分も当然目に入ってくる。そうすると、そのピンボケの部分をなんとかはっきり見ようとして目がいつも以上に動く。ピンボケは目のせいだと「脳」が判断し、視神経を動かそうとするのである。これが、非常に疲れる。途中で吐き気がするくらいにまで、「脳」が混乱し、悲鳴を上げる。
普通の視力の人は、どうだったのだろう。
さて、作品そのものだが……。
サウルはガス室で生き延びた少年をみつける。瀕死である。少年は口をふさがれて死ぬ。解剖されることになる。その少年は主人公の息子だった。サウルはガス室にユダヤ人を送り込み、その死体を処理する仕事をしているのだが、息子を見て、なんとか埋葬したいと思う。
ここからサウルは、その「自分の願望」しか見えなくなる。ほかにユダヤ人がいて、その人たちは何とか死から逃れたいと思っていることなど、見えなくなる。解剖する予定の医師に、解剖はやめてくれ、と頼む。埋葬するために、「ラビ」をさがす。そのために自分の管轄外の「班」にもぐりこむ。ラビを見つけて、強引に自分の「願望/欲望」を打ち明ける。
サウルの気持ちは、もちろん相手につたわる。しかし、「埋葬」を手伝うことは、自分自身の死につながる。「埋葬」は禁じられている。殺して、焼いてしまう、というのがそこでの決まりである。決まりを破れば殺される。
そういう「個人的」な「願望」、サウルの行動と平行して、収容所からの脱出を試みる集団が描かれる。なんと、そのなかには、収容所で起きていることを「記録」する人間もいる。虐殺の証拠写真を撮ったりしている。とても意識が高い。ここで起きていることを許さないという強い気持ちがある。サウルもその一員である。一員なのだが、どうしても「集団」の仕事よりも、自分自身の「願望」が優先してしまう。そのために、脱出に必要な爆薬を落としてしまうというようなことも起きる。しかもそれはラビだと名乗る男を救おうとする過程で起きる。さらに悪いことに、その男はラビではなく、ラビだと言えば助かる可能性があると思って、そう言っただけなのだ。埋葬しようとしても、そのとき祈りのことばを言うことができない。
こういうことが、色彩のほとんどない映像で、しかも「押し殺した感情」をぐいぐいと押しつけるような形で展開される。登場人物全員が「押し殺した感情」を「ことば」ではなく「顔/目の力」で押しつけ合う。「自分の仕事」をしろ、「生き延びろ」というわけである。だからいったん脱出すると、脱落しそうになるサウルを助けたりもする。サウルは息子の遺体を逃げる途中で河に流してしまうが、その失意のサウルを仲間は助けながら泳ぎもするのである。「ことば」ものなく。
映画はたしかに「ことば」がなくても成立するし、「ことば」が少ない方がおもしろいものだが、この映画は、あまりにも「顔」で「ことばにしないことば」を発しすぎる。それが、あまりにも鋭く、激しく、強い。目の奥(網膜)に、度の強い眼鏡をかけたときよりもさらに鋭利な感じで「ことばにしないことば」を刻み込む。
ラスト。逃走の途中、森の中で休むサウルら。開いた入り口の向こう、森の中から少年がサウルたちを覗きこむ。少年に気がつくのはサウルだけで、ほかの人は気がつかない。サウルと少年はほほえみあう。少年を見て、サウルの顔がゆるむ。はじめてサウルが「感情」を他人と共有するシーンである。少年は森の中へ消えてゆき、背後で銃が乱射される音がする。あの少年は、ほんとうにいたのか。それともサウルの見たまぼろしなのか。それは、わからない。サウルが死ぬ前に、やっと微笑むことができた。それだけが救いの映画である。ただし、涙は流れない。悲しみというのはいつでも「カタルシス」だが、ホロコーストにはカタルシスはないからだ。
(KBCシネマ1、2016年03月06日)
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