詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

彼は、私の言うことを聞かなかった/異聞

2016-03-23 23:24:50 | 
彼は、私の言うことを聞かなかった/異聞

彼は、私の言うことを聞かなかった。
                 彼とは、私であるのだが。
彼は、光が壁に反射しながら入ってくる路地を音をたてずに歩き、階段のところにいる猫の、やわらかい毛をなでる手を見た。
彼の手は、私の目が、手を見つめることを知っていた。
しかし、私の目のなかで、彼の手と猫の毛が入れ替わるのを知らなかった。
やわらかいのは手の方であり、猫の毛の方が手の感触を楽しんでいる。

私は、彼の言うことを聞かなかった。私とは、語られてしまった彼のことなのだが、と書き換えると、「物語」ということばが廊下を走っていく。ピアノの鍵盤のひとつをたたきつづけたときの音のように。空は夕暮れ独特の青い色をしていた。空のなかにある銀色がすべて消えてしまったときにできる青に。

彼は、私の言うことを聞かなかった。
                 彼とは、私であるのだが。
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荒木時彦『要素』

2016-03-23 15:08:38 | 詩集
荒木時彦『要素』(私家版、2016年03月30日発行)

 荒木時彦『要素』は三部から構成されている。基本的に「反復」であり、新しいことは起きない。『ゴドーを待ちながら』と同じである。違う点は『要素』が男を待つのではなく、探しにゆくこと。追いかけること。しかし、出会わない。「ゴドーは来ない」のかわりに「私はたどり着けない」が繰り返される。
 何も起きない繰り返しのなかで、何が動くか。私は「時間が重くなる」と考えている。「時間」がブラックホールのように重くなり、輝きをすべて吸収してしまう。私はこれを「重力の時間」と呼んでいるが、「時間の重力」と読み替えることもできる。ベケットは、何もすることがない人間が「重力の時間」のなかで衝突し、最後の光を発する瞬間を繰り返し再現することによって、それ(重力の時間/時間の重力)が「事実」として存在することを実証して見せた。
 荒木はどうか。
 
私は一人の男を探していた。その男は、街の電柱に、自分で作ったステッカーを貼っていた。そのステッカーは、ダブルダガー(††)に装飾を施したデザインだった。それが何を意味するか、様々な憶測があったが、確からしいものは一つもなかった。ある日、そのステッカーがすべてはがされ、その日から新たにステッカーが貼られることはなかった。男はこの街から出て行ったらしい。私は休暇を利用してその男の足跡をたどっている。
(略)
男は、移動先で、様々なものをスケッチをしているらしい。
(略)
ここで、二つの仮説を立ててみる 1(男は旅行をしている)2(男は新しいステッカーを作ろうとしている) 男を追っているという点を除けば、私もまた旅行をしているだけだ。

 これが次のように繰り返される。

私は一人の男を探していた。その男は、街のシャッターに、自分で作ったステッカーを貼っていた。そのステッカーは、二つのダガー(†)を斜めに並べたデザインだった。それが何を意味するか、様々な憶測があったが、確からしいものは一つもなかった。ある日、そのステッカーがすべてはがされ、その日から新たにステッカーが貼られることはなかった。男はこの街から出て行ったらしい。私は休暇を利用してその男の足跡をたどっている。
(略)
男は、訪れた先で必ず写真を撮っていたようだ。
(略)
ここで、二つの仮説を立ててみる 1(男は旅行をしている)2(男は新しいステッカーを作ろうとしている) 男を追っているという点を除けば、私もまた旅行をしているだけだ。

 電柱がシャッターに、並んでいるダガーが斜めに配置されている、スケッチが写真に変わっているが、いなくなった謎の男を追いかけるという構造は変わっていない。運動の基本は逃げる(?)男を追いかけるということである。
 ベケット(『ゴドー』)と同じところはなにか。違うところは何か。
 同じところは、「確からしいものは一つもなかった」だろう。「ゴドーは来るのか、来ないのか」は、「男は何をしているのか、男に追いつけるのか(男を理解できるのか)」という形で反復されている。
 違う点は何か。「意味」「憶測」「仮説」である。記憶は定かではないのだが、ベケットは、『ゴドー』のなかで、そういうことばをつかっていない。言い換えると、『ゴドー』の登場人物は、ゴドーに対して「意味する」「憶測する」「仮説を立てる」という「意識」の運動をしない。特に「意味」を求めない。「意味」の欠如、あるいは「意味」の排除が『ゴドー』であり、「意味の欠如が「時間の重力/重力の時間」の特徴なのである。
 これに対して、荒木は、あくまで「意味」を求める。「何を意味するか」が最初に問われている。「意味」をもとめる仮定で「推測する」「仮設を立てる」という「動詞」が動いている。「意味する/意味を求める/意味をつくる」という動きがなければ「推測」も「仮設」もあらわれてこないだろう。
 「意味」というのは不思議なもので、いつでもつくり出せる。「意味」を「価値」ではなく「論理」と言い直すと、そのことがさらにはっきりする。
 荒木が書いているように、何もないときは「確からしいものは一つもなかった」と「ない」ということさえ、「論理/文章/ことばの運動」として提出することができる。「ない」を「ある」と断定して語ることができるのが「論理」である。

それが何を意味するか、様々な憶測があったが、確からしいものは一つもなかった。

 これが「論理」の「基本」である。「ない」が「ある」ということに気づいたときから「論理」は「論理」を必要とする。「現実/事実」を離れ、「形而上学」になる。「意味」になる。
 荒木の詩集のタイトルは「要素」だが、「論理」の「要素」は「ない」の発見である。
 何もない。そのとき「論理」はどう動くか。いや、荒木はどう動くか。

二つの仮説を立ててみる

 「仮説」とは「まだ存在しない」。そこにはすでに「ない」が含まれている。「ない」のだけれど「ある」と考えるのが「仮説」である。「仮説」を立てるとは、その「仮説」によって「論理」を生み出すということである。「論理」を「論理」だけの力で自律運動させる。
 で。
 それだけなら、何のおもしろみもないことなのだが。
 荒木は、ちょっと、違う。

二つの仮説を立ててみる

 えっ、なぜ、二つなんだよ。私は、実は、そこで驚いた。前半では、「男はこの街から出て言ったらしい。」と「仮説」は「一つ」しか書かれていない。死んだかもしれないし、隠れているのかもしれない。「仮説」はいくつらでも立てることができる。推測は、いくらでもできる。しかし、荒木の描く「私」の「推測」は「一つ」である。
 「スケッチをしているらしい」「写真を撮っていたようだ」は「推測」であり、「推測」は「仮定/仮説」でもあるのだが、「仮説」ということばがつかわれる前は、それは「ひとつ」である。。
 荒木の描く「私」は、基本的に「一つ」の「推測」にもとづいて行動している。それなのに、なぜか、「推測」ということばではなく「仮説」ということばをつかった瞬間に、それは「一つ」であることを拒み、複数化している。ここに荒木の「思想/肉体」がある。荒木にしか書けない問題がある。「仮説」には「複数」ありうると、荒木は書かずにはいられないのだ。

 「推測」と「仮説」はどこが違うか。「推測」には「他人」が紛れ込んでいる。「私」が目撃したこと以外が含まれている。「スケッチをしているらしい」「写真を撮っていたようだ」は「私」の直接的な体験によって動いていることばではない。その「情報」を「私」は「男の情報」と「推測/判断」しているだけである。
 しかし「仮説」は「私」が個人(一人)で立てている。
 逆に言うと……。
 このときの「私」は「仮説する、ゆえに我あり」という二元論の入り口に立っているということだ。
 したがって、当然のことながら、冒頭の断章のあとに書かれるのは「ストーリー」のように見えるが、実は、「認識」にすぎない。「事実」ではなく、「事実」であると「仮説して/仮定して」、それを報告したものになる。
 ここから「意識の運動」の自律、肉体と精神(意識/ことば)の分離、さらに精神/意識/ことばの重視という「二元論」の問題へと考えを進めていってもいいのかもしれないが。
 そのことを書きはじめると、私はどうしても、こういう「頭の論理/二元論」を否定したい気持ちが強くなって、強引に、ことばをねじまげてしまいそうなので、そういうことは書かずに……。

 この「ここで、二つの仮説を立ててみる」という、突然の、「意識」への方向転換と「二つ」ということばから、またベケットとの対比にもどってみたい。
 ベケットの場合、複数が存在しても、それが同じ行動を繰り返すことで接近し、そこに「繰り返し」そのものが「重力の時間/時間の重力」を発生させ、それがブラックホーののようにすべてをのみこむという運動を展開するのだが、荒木は逆なのだ。
 「ブラックホール」ではなく「ビッグバン」なのだ。
 「一つ」が「複数」に増えていく。増殖していく。「論理/意味」はことばの積み重ねしだいで、どこまでも拡大していく。どこまでも、という「無制限」をいきるものだからこそ、「仮説」ということばの前には、

ここで、二つの仮説を立ててみる

 という具合に「ここで」という「限定」が必要だったのだ。「ここで」の「ここ」を離れた瞬間から、「仮説」に導かれて、ことばは次々に増殖していく。つまり、断章が増えていく。
 ここから、その増殖する断章へと読み進むのではなく、私は逆に、最初の部分を読み返してみる。

確からしいものは一つもなかった。

 ここに「一つ」ということばが出てきている。「一つもない」は、しかし、何もないではない。「無」ではない。不確かなものは「無数」に「ある」ということだ。
 「ない/無」へ向かって考えを動かしているようであって、実は、そうではなかったのだ。最初から「無数」へ向かって動いている。
 荒木の作品は「001」から「009」へと進んでいく。ベケットの作品が「001」から「000」へと、さらには「マイナス」へと進んでゆくのとはまったく逆なのだ。それは最初から、そうなっているのだ。
 だから、この詩集に何か「要素」があるとしたら、その「要素」を「動詞」で語るとしたら、それは「増殖する」ということかなあ、と思うのである。
 「反復/繰り返し」は、何かを「削ぎ落とす」ことではなく、荒木にとっては、それまでとは違ったものを「抱え込む/増やす」ことなのだ。
 したがって、荒木の「時間」というのは「重力の時間/時間の重力」というよりも、「浮力の時間/時間の浮力」なのである。
 もしそうなら、「反復/繰り返し」ではなく、もっと暴走する形の方がたくさん抱え込めそうな気もするが、手当たり次第ではなく、「確かさ」を求める気持ちの方が強いのかな。「確からしいもの/確からしさ」を求めることこそが、荒木を縛っている試行の基本、「要素」ということになるかもしれない。「浮力」ゆえに、それを「確かなもの」として定着させようと欲望するのかもしれない。


memories
荒木 時彦
書肆山田

*

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椅子を持ってきてほしい、

2016-03-23 00:00:00 | 
椅子を持ってきてほしい、

「椅子を持ってきてほしい」と言ったのは、隣に座ってほしかったからだ。このことばは、たいていの場合、誤解された。「隣」ということば、その書かれていない「距離」が誤解を生むのである。けれど「座る」の方が、願望である。座って、通りすぎるものを見つめていたい。

思い出せるだろうか。「秋には葡萄を買った」と言った理由を。いつも通りすぎるだけの店で立ち止まった。古くさい紙に一房つつんでもらった。やわらかく皺を抱いているが葡萄の匂いにそまった。あのときわかったのだ。「私は、もう匂いを食べるだけで十分満足だ。」

窓から見える空には、羽の生えた雲が。

それは、ほんとうにあったことなのか。あるいは思い出したいと思っているだけのことなのか。いまは、どの季節にも葡萄が売られている。そして、どの月日にも、そのひとはいないのに、だれも座っていない椅子を見るたびに「椅子を持ってきてほしい」ということばがやってくる。
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