詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

大野直子「ポパイ」

2016-03-12 09:42:09 | 詩(雑誌・同人誌)
大野直子「ポパイ」(「クレソンスープ」7、2016年01月10日発行)

 大野直子「ポパイ」は「動詞」で読もうとすると、むずかしい。

ムイシキの落下

青いカリンが
46億才の地球をうがった
ものおじもせず
堂々と
ミミズのはらわたにもひびいた

 「ムイシキ」が「青いカリン」と言い換えられているのか、「青いカリン」が「ムイシキ」と呼ばれているのか。どちらが「比喩」なのか、よくわからない。どちらであると断定せずに、どちらでもある、ということなのだろう。
 「落下」は「落下する」という「動詞」と結びつく。「落下した」もの(ムイシキ/青いカリン」が「地球をうがつ」、「地球に穴をうがつ」。これは、「動詞」の連鎖としてよくわかる。
 この詩を活気づかせているのは、しかし、そういう「動詞」の連鎖、関係ではない。「動詞」で何かを確かめようとすることをあざ笑うように対比される「名詞」が、この詩を活気づかせている。
 「青いカリン」と「46億才の地球」の「対比」。カリンは「小さく」、地球は「大きい」。その「小さい」ものが「大きい」ものに「穴をうがつ」。「うがつ」という「動詞」のなかで、「小さい」ものと「大きい」ものが、入れ替わったような感じがする。さらに「青い/若い」と「46億才/老い」の「対比」がそれに加わる。
 「落下する→穴をうがつ」という「動詞」のなかで、「小さい/若い」「大きい/老い」が「はじめて」のもののようにして、出合う。「うがつ」という「動詞」がかけ離れたものを出合わせる。
 手術台の上のミシンとこうもり傘の「出合い」のように。
 このかけ離れたものの「力関係」が、「常識」とは逆であるところが、詩を生み出している。「小さい/若い」が「大きい/老い」に打ち勝つ、「穴をうがつ」。ちょっと楽しい。
 この楽しさ、愉快を「ものおじもせず/堂々と」と言い直しているのもいいなあ。「ものおじもせず/堂々と」は「若い(小さい)」ものの「特権」である。
 この楽しさは「衝撃」ということばでも言い直されている。「衝撃」のなかには、やはり「若い」何かが弾けている。
 で、それが、そのまま「暴走する」のではなく、なんと、

ミミズのはらわたにもひびいた

 と、ぜんぜん違う「名詞」をひっぱり出して、さらに活気づく。
 「ミミズ」は「卑小なもの」。「青いカリン」の対極にある。「ミミズ」は「小さい」に通じるけれど、「青い/清潔」には通じない。「清潔」とは逆のもの、「はらわた」の生々しい「汚さ」に通じる。その「はらわた」は「ムイシキ」かもしれない。どろどろして、とらえられないもの。それはまた「マグマ」、つまり「地球のはらわた」にも重なる。「ミミズのはらわた」と書かれているにもかかわらず「地球のはらわた」にひびいたと感じてしまう。イメージ、連想が掻き回され、「書かれている名詞」が入れ替わってしまう。
 これはどうしてだろう。
 「ミミズ」が「大地/地球」のなか(内部/内臓/はらわた)にいるからだろうか。
 そういうこともあるだろうけれど、「ひびく」という「動詞」が重要な働きをしていると思う。
 「落下する→音をたてる」。この「音をたてる」が「音を出す/音がひびく」へとつながっているのだ。
 詩では「ひびく」は「音をたてる/音を出す」ではなく「衝撃がひびく」という「文脈」でつかわれているのだが、書き出しの「ムイシキの落下/青いカリンの落下/地球への落下」が「衝撃」よりも前に「音」を感じさせるから、「ひびく」という「動詞」のなかで「音をたてる」と「衝撃がひろがる」が交錯するのである。

 「動詞」のなかで「肉体」がひとつのことを確かめる(ひとつの方向に進む)というのとは逆に、「動詞」をとおって、「ひとつ」のものが複数に炸裂して拡散していくという「運動」がこの詩のなかにある。
 「意味/意識」を「統一する」というのではなく、むしろ「意味/意識」を破壊し、拡散させる。「青いカリン」が大地に落下する、と書いているが、まるで打ち上げ花火が夜空に炸裂する感じだ。
 「青いカリン」と「46億才の地球」がぶつかり、あざやかな花火に変わるのだ。

雑草はすっぽ抜け
地球の裏側が吸いこまれて
アマゾンが
両腕に
みなぎる

 雑草を抜いた「穴」と「青いカリン」が「46億才の地球」に「うがった穴」を言い換えたものというか、「同じもの」なのだが、こんな「意味」など「特定」しても、おもしろくもなんともない。
 「意味」の「特定」は拡散しているものを「集約」すること、「ひとつ」にしてしまうこと。
 大野がやろうとしていることは、まったく逆のことだ。
 「ひとつ」のことを、どこまでもどこまでも「拡散する」。
 「青いカリン」が「落下」したのは、金沢のどこか(石川県のどこか/大野は金沢に住んでいるので、とりあえずそう仮定するのだが)。しかし、その金沢の「土地」にとらわれずに、「穴」は一気に「地球の裏側」の「アマゾン」へと飛躍する。金沢の地面に穴が空いたら、その穴の「空白(?)」に向けて、地球の裏側のアマゾンが「吸い込まれて」くる。
 とてつもなく「大きい」空想/妄想(?)なのだが、それを「両腕」の「大きさ」でとらえてしまう。「両腕」のなかに、そういう「運動」が「みなぎる」。「みなぎらせてしまう」。
 「動詞」をとおりながら、「名詞」がビッグバンのように爆発する。
 「無意識」とは、大野にとっては、そういう「ビッグバン」の爆発を引き起こすエネルギーの「場」ということなのだろう。
化け野―詩集
大野直子
澪標
コメント
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