詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

クエンティン・タランティーノ監督「ヘイトフル・エイト」(★★★★)

2016-03-04 12:02:41 | 映画
監督 クエンティン・タランティーノ 出演 サミュエル・L・ジャクソン、カート・ラッセル、ジェニファー・ジェイソン・リー 

 この映画で最初に驚くのは「ニガー」ということばである。いまは映画ではつかわれない。映画の舞台が南北戦争直後(?)くらいの西部劇ということなので、まだそういう差別的なことばは話されていたかもしれないが、映画なのだからそのへんはテキトウに処理できるはずなのであるが、あえて「ニガー」ということばをつかっている。
 もちろんつづけて「ニガー」ということばをつかうな、という台詞も配置されているのだが。
 で、この「ニガー」+そのことばの否定という構造が、実は、この映画を象徴している。「ことば」で何かを言う。その「ことば」を否定する。世界を構成するのは「ことば」である。だから、役者の全員が、非常にはっきりと、めりはりのきいた台詞回しをする。くずれた英語を話さない。まるで「芝居」である。
 実際に、「芝居劇」なのである。
 雪の荒野を舞台にしていても、駅馬車の外は関係がない。雪の原野で活劇が行われるわけではない。雪の原野は人間を駅馬車に押し込め、駅馬車を「舞台」にする。駅馬車のシーンが終われば、「山小屋(?)」みたいな「店」が「舞台」になる。雪の荒野はここでも登場人物を「店」の「室内」にとじこめてしまう。そこでは、やはり「台詞」が飛び交う。
 その台詞だが。
 「ニガー」と同じように、見逃してはならない台詞がある。サミュエル・L・ジャクソンはリンカーンと文通していて、その手紙を持っている。そのことに対して、ある男がそれはほんとうか、と聞くのだが。そのとき、男はサミュエル・L・ジャクソンに直接聞かない。「カート・ラッセルによると……」「カート・ラッセルによると……」「カート・ラッセルによると……」とつづけた上で、「ほんとうか」と問う。これは、どういうことか。映画でちゃんと説明されているが、カート・ラッセルはだまされている。「ことば」を鵜呑みにして、サミュエル・L・ジャクソンにだまされているということ。
 これを逆に言うと、サミュエル・L・ジャクソンは嘘をついているということ。別のことばでいうと、「芝居」をしているということ。そして、「芝居」をしている(嘘をついている)のはサミュエル・L・ジャクソンだけではないことが、次第にわかってくる。みんなが「芝居」をしている。
 この「嘘/芝居」の空間をどうやって生き抜いていくか、が、この映画の、いわば見かけのテーマだね。これがこのまま映画全編をつらぬけば傑作なのだが、一か所「瑕疵(きず)」がある。「芝居」ではなくなっているシーンがある。まあ、「芝居/舞台」では不可能だから「映画」にしたと言えばいえるのだろうけれど、とてもずるいことをしている。
 それはジェニファー・ジェイソン・リーの秘密といっしょに語られる「過去」のシーン。サミュエル・L・ジャクソンたちが「店」につく前にあったことが、実はこの事件よりも前に、その朝、こういうことがありました、と挿入される。小説や映画ではこういうことはありきたりだが、「舞台/芝居」ではそれは禁じ手。「舞台」ではただただ現在から未来へと時間が進んで行く。登場人物が「過去のシーン」を演じることはない。「過去のシーン」を演じることで「現在」を説明することはない。こんな「ずるい」手法で「嘘/芝居」の構造を説明してはぜんぜんおもしろくない。
 これにくわえて、その「便利な嘘」に便乗して、地下室にジェニファー・ジェイソン・リーの兄(弟だっけ?)が隠れていたと9人目の人物がでてきたのでは、もう「嘘まみれ」。観客をばかにしている。「地下室」があるなんて、観客のだれひとり、知らないことだ。そんな「知らないこと」を利用して「芝居/映画」を動かしてはいけない。だいたい、そのシーンだけ「ことば」が動いていない。ことばが他人を動かしていない。「芝居」なのに。
 ことばにもどって言えば。
 サミュエル・L・ジャクソンが最初にこの「店」が「嘘」くさいと気づくのは、(あとで説明されるのだが)メキシコ人がいること。女主人は「犬とメキシコ人はお断り」という看板を掲げていた。その「ことば」に反して、メキシコ人が「店を任された」と言った。それはヘンだ、というわけである。
 ひとは「ことば」どおりに行動する。「ことば」にしたがって行動する。
 で、「ことば」と「行動」について言えば、サミュエル・L・ジャクソンがブルース・ダンを殺すシーンもおもしろいねえ。ブルース・ダンの息子は南軍に参加していた。その息子をサミュエル・L・ジャクソンが殺した。「どんなふうに死んでいったか、その最期を知りたくないか」と親ごころをくすぐっておいて、屈辱的なことを言う。それはきっと「嘘」なのだが、「嘘」とわかっていても、その瞬間を想像し、怒りに襲われる。「ことば」はそんなふうに人間を動かすのである。「ことば」に動かされて、行動してしまうものなのである。
 クライマックスの、ジェニファー・ジェイソン・リーの「部下だ15人いて、おまえたちを殺しにくる」というのも、嘘かほんとうか、まあ、わからない。その「ことば」をどう受けとめるかが、この映画のハイライトなのだが。
 このとき「決め手」となるのは、何か。やっぱり「ことば」。ただしジェニファー・ジェイソン・リーの「ことば」ではなく、サミュエル・L・ジャクソンにだまされつづけたカート・ラッセルの「ことば」。カート・ラッセルだけが、「嘘つき」ではなかった。正直だった。カート・ラッセルは、懸賞金のかかった人間を「吊るし首」にして殺すのが好きだった。「お尋ね者は吊るし首にする」というのがカート・ラッセルの言い分である。その「ことば」をサミュエル・L・ジャクソンは「実行」する。
 「ことば」は「肉体」によって「実行」されたとき「真実」になる。
 なんてことをクエンティン・タランティーノが考えたかどうかわからないが、いやあ、おもしろい。けなして書いたが、回想シーンの雪のなかを走る駅馬車のシーンが延々とつづくのもばかばかしくて美しかったなあ。「ことば」に凝っていることを飛び散る血でごまかしながら、(照れ隠ししながら)、最後にリンカーンの泣かせる手紙の「嘘」をもっう一回繰り返すなんて、これも信じられないくらいばかばかしくていい。「嘘」の閉じ方が上手だ。
                   (中洲大洋スクリーン3、2016年03月02日)











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