和田まさ子「理想的な目覚め方」(「地上十センチ」11、2016年02月28日発行)
和田まさ子「理想的な目覚め方」にはおもしろい部分と、つまらない部分がある。
これは書き出し。快調である。特に「なかみがない生き物になっている」がいい。「なる」は和田の特技だ。それより前に「いくつもの物語の主人公になり」にも「なる」があるが、これはいままでと同じ「なる」。今回の「なる」は「なかみがない生き物」。どんなものか、すぐにはわらかないが、なんとなく「わかる」。それいいなあ、と思ってしまう。
ところが、このあと、
ここは、「説明」がしつこい。
「新しくなりたい」にも「なる」が隠れているが「なりたい」と「願望」のままで、「なる」にはなっていない。
この「新しくなりたい」の「新しく」は「なかみがない」ということと重なるのだが、それを「説明」しているから退屈。
ほかの読者はどうか知らないが、私は、和田の「なる」をとおして、私も何かになってみたい。そのとき私が「なる」ものは、和田が書いているものと違うかもしれない。つまり、私は和田を「誤読」しているかもしれないが、「誤読」という批判を、私は気にしない。読んでしまえば、詩は作者のものではなく読者のもの。作者が何を考えていようが、そんなことは関係がない。
たぶん、和田は、「なかみがない生き物」というのが何のことかわからないと言われるのを恐れて「説明」している。私は「説明」なんか聞きたくない。むしろ、和田のことばを「誤読」したいのである。
和田は「なかみがない」を「充溢」ということばと対比させている。さらに「からっぽ」ということばで補足しなおしている。「なかみがない」を「虚無」だとか「空虚」と言ってしまうと、その「なかみ」が「意味」になってしまう。だから「なかみ」を「充溢ではない」と否定形で語りなおしているのだが、この否定形で語りなおすというのは、ことばを「論理」にしてしまう。「論理」というのは、どれだけ「無意味」を書こうとしても「論理」というの「意味」を持ってしまう。これが、つまらない。
「論理」にも詩はあるかもしれないが、詩は「論理」ではない。
たぶん、そういうことをうすうす感じるから「からっぽ」という軽い(?)ことばで「充溢」の否定を言い直すのだが……。
ああ、うるさいなあ、としか私には感じられない。
私が和田のことばにおもしろさを感じるのは、「他人」との出合い方が独特だからである。「他人」に出会うと、「他人」に影響を受ける。影響を受けると、自分のなかに見落としていたもの(ことばにしてこなかったもの)が動き出す。それは、「いま」の和田を突き破って動く。それが「なる」という瞬間の動きだった。
私は、そんなふうに和田を読んできた。
でも、この詩では「他人」がいないのだ。「他人」が登場しないから、「わたし」は何かになろうにも、「なれない」。「なる」ということばが何度か書かれるが、ほんとうは「なる」になっていない。
途中を省略して三連目。
「梟を肩に止まらせて/自転車に乗っていた人」が現実にいるかどうか知らないが、「物語の主人公」のようなものだろう。「背景/過去の時間」は、その登場人物にはあっても、「ない」。「物語」に従属してしまっていて、「物語」を突き破って動かない。「飲み屋のまっちゃん」は「物語」の登場人物というよりは「現実」の人間として書かれているのだろうが「移転する」という「未来」は書かれていても、肝心の「過去の時間」がそこには「ない」。「意味」が書かれているだけで、「他人」が和田の肉体を突き破って内部に侵入し、突き動かし、突き動かされるままに、和田が「他人」になって動いてくという運動がない。
「他人」の「過去の時間」が「ない」、和田の「いま」に噴出してきていない。だから和田はその「他人」に影響を受けることがない。だから、和田は何かに「なる」ということができない。
この最終連の、それっぽい終わり方が、いやだなあ。嫌いだなあ。「それまでの」という「過去」の出し方、それをひっくりかえすようにして「つま先」と「先」へ時間を動かすやり方、「踏んで、」という読点で終わる呼吸の形。
「現代詩」の「癖」(現代詩として評価される語法、スタイル/論理)で締めくくられても、おもしろくない。「現代詩」には「なる」だろうけれど、「詩」にはならないなあ、と思う。
「上手」と「詩」は共存できないものなのだ。
*
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谷内修三詩集「注釈」(象形文字編集室)を発行しました。
2014年秋から2015年春にかけて書いた約300編から選んだ20篇。
「ことば」が主役の詩篇です。
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なお、「谷川俊太郎の『こころ』を読む」(思潮社、1800円)と同時購入の場合は2000円(送料込)、「リッツォス詩選集――附:谷内修三 中井久夫の訳詩を読む」(作品社、4200円)と同時購入の場合は4300円(送料込)、上記2冊と詩集の場合は6000円(送料込)になります。
支払方法は、発送の際お知らせします。
和田まさ子「理想的な目覚め方」にはおもしろい部分と、つまらない部分がある。
眠っているあいだに
いくつもの物語の主人公になり
忙しかった
朝
疲れて目覚めると
わたしというかたちだけがあって
なかみがない生き物になっている
という理想的な目覚め方がしたい
これは書き出し。快調である。特に「なかみがない生き物になっている」がいい。「なる」は和田の特技だ。それより前に「いくつもの物語の主人公になり」にも「なる」があるが、これはいままでと同じ「なる」。今回の「なる」は「なかみがない生き物」。どんなものか、すぐにはわらかないが、なんとなく「わかる」。それいいなあ、と思ってしまう。
ところが、このあと、
帰ってくるときに
いつも新しくなりたい
もう
充溢ということは
いらない
わたしはからっぽで
ここは、「説明」がしつこい。
「新しくなりたい」にも「なる」が隠れているが「なりたい」と「願望」のままで、「なる」にはなっていない。
この「新しくなりたい」の「新しく」は「なかみがない」ということと重なるのだが、それを「説明」しているから退屈。
ほかの読者はどうか知らないが、私は、和田の「なる」をとおして、私も何かになってみたい。そのとき私が「なる」ものは、和田が書いているものと違うかもしれない。つまり、私は和田を「誤読」しているかもしれないが、「誤読」という批判を、私は気にしない。読んでしまえば、詩は作者のものではなく読者のもの。作者が何を考えていようが、そんなことは関係がない。
たぶん、和田は、「なかみがない生き物」というのが何のことかわからないと言われるのを恐れて「説明」している。私は「説明」なんか聞きたくない。むしろ、和田のことばを「誤読」したいのである。
和田は「なかみがない」を「充溢」ということばと対比させている。さらに「からっぽ」ということばで補足しなおしている。「なかみがない」を「虚無」だとか「空虚」と言ってしまうと、その「なかみ」が「意味」になってしまう。だから「なかみ」を「充溢ではない」と否定形で語りなおしているのだが、この否定形で語りなおすというのは、ことばを「論理」にしてしまう。「論理」というのは、どれだけ「無意味」を書こうとしても「論理」というの「意味」を持ってしまう。これが、つまらない。
「論理」にも詩はあるかもしれないが、詩は「論理」ではない。
たぶん、そういうことをうすうす感じるから「からっぽ」という軽い(?)ことばで「充溢」の否定を言い直すのだが……。
ああ、うるさいなあ、としか私には感じられない。
私が和田のことばにおもしろさを感じるのは、「他人」との出合い方が独特だからである。「他人」に出会うと、「他人」に影響を受ける。影響を受けると、自分のなかに見落としていたもの(ことばにしてこなかったもの)が動き出す。それは、「いま」の和田を突き破って動く。それが「なる」という瞬間の動きだった。
私は、そんなふうに和田を読んできた。
でも、この詩では「他人」がいないのだ。「他人」が登場しないから、「わたし」は何かになろうにも、「なれない」。「なる」ということばが何度か書かれるが、ほんとうは「なる」になっていない。
途中を省略して三連目。
帰ってきたら
この町が一変していた
梟を肩に止まらせて
自転車に乗っていた人が見えない
大学通りに夕暮れがすとんときて
飲み屋のまっちゃんは移転するという
「梟を肩に止まらせて/自転車に乗っていた人」が現実にいるかどうか知らないが、「物語の主人公」のようなものだろう。「背景/過去の時間」は、その登場人物にはあっても、「ない」。「物語」に従属してしまっていて、「物語」を突き破って動かない。「飲み屋のまっちゃん」は「物語」の登場人物というよりは「現実」の人間として書かれているのだろうが「移転する」という「未来」は書かれていても、肝心の「過去の時間」がそこには「ない」。「意味」が書かれているだけで、「他人」が和田の肉体を突き破って内部に侵入し、突き動かし、突き動かされるままに、和田が「他人」になって動いてくという運動がない。
「他人」の「過去の時間」が「ない」、和田の「いま」に噴出してきていない。だから和田はその「他人」に影響を受けることがない。だから、和田は何かに「なる」ということができない。
いつか消える
きっと滅びる
それまでの冬を
つま先で
やさしく踏んで、
この最終連の、それっぽい終わり方が、いやだなあ。嫌いだなあ。「それまでの」という「過去」の出し方、それをひっくりかえすようにして「つま先」と「先」へ時間を動かすやり方、「踏んで、」という読点で終わる呼吸の形。
「現代詩」の「癖」(現代詩として評価される語法、スタイル/論理)で締めくくられても、おもしろくない。「現代詩」には「なる」だろうけれど、「詩」にはならないなあ、と思う。
「上手」と「詩」は共存できないものなのだ。
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和田 まさ子 | |
思潮社 |
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谷内修三詩集「注釈」発売中
谷内修三詩集「注釈」(象形文字編集室)を発行しました。
2014年秋から2015年春にかけて書いた約300編から選んだ20篇。
「ことば」が主役の詩篇です。
B5版、50ページのムックタイプの詩集です。
非売品ですが、1000円(送料込み)で発売しています。
ご希望の方は、
yachisyuso@gmail.com
へメールしてください。
なお、「谷川俊太郎の『こころ』を読む」(思潮社、1800円)と同時購入の場合は2000円(送料込)、「リッツォス詩選集――附:谷内修三 中井久夫の訳詩を読む」(作品社、4200円)と同時購入の場合は4300円(送料込)、上記2冊と詩集の場合は6000円(送料込)になります。
支払方法は、発送の際お知らせします。