詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

和田まさ子「理想的な目覚め方」

2016-03-21 11:10:03 | 詩(雑誌・同人誌)
和田まさ子「理想的な目覚め方」(「地上十センチ」11、2016年02月28日発行)

 和田まさ子「理想的な目覚め方」にはおもしろい部分と、つまらない部分がある。

眠っているあいだに
いくつもの物語の主人公になり
忙しかった

疲れて目覚めると
わたしというかたちだけがあって
なかみがない生き物になっている
という理想的な目覚め方がしたい

 これは書き出し。快調である。特に「なかみがない生き物になっている」がいい。「なる」は和田の特技だ。それより前に「いくつもの物語の主人公になり」にも「なる」があるが、これはいままでと同じ「なる」。今回の「なる」は「なかみがない生き物」。どんなものか、すぐにはわらかないが、なんとなく「わかる」。それいいなあ、と思ってしまう。
 ところが、このあと、

帰ってくるときに
いつも新しくなりたい
もう
充溢ということは
いらない
わたしはからっぽで

 ここは、「説明」がしつこい。
 「新しくなりたい」にも「なる」が隠れているが「なりたい」と「願望」のままで、「なる」にはなっていない。
 この「新しくなりたい」の「新しく」は「なかみがない」ということと重なるのだが、それを「説明」しているから退屈。
 ほかの読者はどうか知らないが、私は、和田の「なる」をとおして、私も何かになってみたい。そのとき私が「なる」ものは、和田が書いているものと違うかもしれない。つまり、私は和田を「誤読」しているかもしれないが、「誤読」という批判を、私は気にしない。読んでしまえば、詩は作者のものではなく読者のもの。作者が何を考えていようが、そんなことは関係がない。
 たぶん、和田は、「なかみがない生き物」というのが何のことかわからないと言われるのを恐れて「説明」している。私は「説明」なんか聞きたくない。むしろ、和田のことばを「誤読」したいのである。
 和田は「なかみがない」を「充溢」ということばと対比させている。さらに「からっぽ」ということばで補足しなおしている。「なかみがない」を「虚無」だとか「空虚」と言ってしまうと、その「なかみ」が「意味」になってしまう。だから「なかみ」を「充溢ではない」と否定形で語りなおしているのだが、この否定形で語りなおすというのは、ことばを「論理」にしてしまう。「論理」というのは、どれだけ「無意味」を書こうとしても「論理」というの「意味」を持ってしまう。これが、つまらない。
 「論理」にも詩はあるかもしれないが、詩は「論理」ではない。
 たぶん、そういうことをうすうす感じるから「からっぽ」という軽い(?)ことばで「充溢」の否定を言い直すのだが……。
 ああ、うるさいなあ、としか私には感じられない。

 私が和田のことばにおもしろさを感じるのは、「他人」との出合い方が独特だからである。「他人」に出会うと、「他人」に影響を受ける。影響を受けると、自分のなかに見落としていたもの(ことばにしてこなかったもの)が動き出す。それは、「いま」の和田を突き破って動く。それが「なる」という瞬間の動きだった。
 私は、そんなふうに和田を読んできた。
 でも、この詩では「他人」がいないのだ。「他人」が登場しないから、「わたし」は何かになろうにも、「なれない」。「なる」ということばが何度か書かれるが、ほんとうは「なる」になっていない。
 途中を省略して三連目。

帰ってきたら
この町が一変していた
梟を肩に止まらせて
自転車に乗っていた人が見えない
大学通りに夕暮れがすとんときて
飲み屋のまっちゃんは移転するという

 「梟を肩に止まらせて/自転車に乗っていた人」が現実にいるかどうか知らないが、「物語の主人公」のようなものだろう。「背景/過去の時間」は、その登場人物にはあっても、「ない」。「物語」に従属してしまっていて、「物語」を突き破って動かない。「飲み屋のまっちゃん」は「物語」の登場人物というよりは「現実」の人間として書かれているのだろうが「移転する」という「未来」は書かれていても、肝心の「過去の時間」がそこには「ない」。「意味」が書かれているだけで、「他人」が和田の肉体を突き破って内部に侵入し、突き動かし、突き動かされるままに、和田が「他人」になって動いてくという運動がない。
 「他人」の「過去の時間」が「ない」、和田の「いま」に噴出してきていない。だから和田はその「他人」に影響を受けることがない。だから、和田は何かに「なる」ということができない。

いつか消える
きっと滅びる
それまでの冬を
つま先で
やさしく踏んで、

 この最終連の、それっぽい終わり方が、いやだなあ。嫌いだなあ。「それまでの」という「過去」の出し方、それをひっくりかえすようにして「つま先」と「先」へ時間を動かすやり方、「踏んで、」という読点で終わる呼吸の形。
 「現代詩」の「癖」(現代詩として評価される語法、スタイル/論理)で締めくくられても、おもしろくない。「現代詩」には「なる」だろうけれど、「詩」にはならないなあ、と思う。
 「上手」と「詩」は共存できないものなのだ。
なりたいわたし
和田 まさ子
思潮社

*

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トム・フーパー監督「リリーのすべて」(★★★★)

2016-03-21 09:35:08 | 映画
監督 トム・フーパー 出演 エディ・レッドメイン、アリシア・ビカンダー

 男と女は、どこが違うか。
 触覚が違う。これは、ジェーン・カンピオンの映画から私が感じたことであって、ほんとうにそうなのかどうかはわからないのだが。
 ジェーン・カンピオンは「ピアノレッスン」「ある貴婦人の肖像」で触覚を官能の入口として描いていた。「ピアノレッスン」はピアノそのものが指で触れるものだが、ハーヴェイ・カイテルがピアノの下にもぐりこみ、ホリー・ハンターのストッキングの穴から足に触れるシーンがなんとも魅惑的だ。穴から触れられてホリー・ハンターが一瞬動揺する。それはセックスの始まりというよりも、エクスタシーに近い。何か、自分自身でストッキングの穴を探して、自分で触っている感じだ。穴があることを知っているから、触られている感じが強まる。触られているのに、触っている感じ。自分の発見。そこを触ってほしい。ほしくない。いや、触ってほしい。それが、そのまま、ピアノを弾く指の動きになる。「ある貴婦人の肖像」では冒頭、ニコール・キッドマンがベッドの飾り房に顔を触れさせ恍惚とした表情を見せる。これもセックスの始まりというよりエクスタシーである。
 ふたつの映画で私が感じたことは、「触る」感覚が、男と女では違うということ。男は何かに触るとき、触られているとは感じない。あくまで触っているのだが、女は触りながら、同時に触られていると感じるのだろう。「ある貴婦人の肖像」のシーンで特に感じたのだが、顔に飾り房が触れるとき、その飾り房はニコール・キッドマンの指そのものなのである。男の指というよりも、その指の動きを思い出し、もっと理想的な指そのものになっている感じだ。
 で、この映画。エディ・レッドメインが、妻のアリシア・ビカンダーの絵のモデルのバレリーナを訪ねるシーン。楽屋(?)裏を通る。衣装がたくさんぶら下がっている。それにエディ・レッドメインが指で触れながら歩いていく。これを見た瞬間、私は、カンピオンのふたつの映画を思い出したのだった。このとき、エディ・レッドメインはまだ自分のなかに存在する女に気がついていないのだが、指の方が先に気がついている。衣装に触りながら、指が衣装に触られる。その官能から離れられない。それが、おもしろい。この「指」の目覚め(?)は、そのあとストッキングに触るシーン、さらにバレエの衣装の感触に引き込まれていくシーンと繰り返される。衣装は、女にとっては「肌(肉体)」そのものであり、衣装に触れることは肌に触れることであり、衣装に触れながら女は衣装が自分の肉体を愛撫してくるのを感じている。触れること/触れられることが一体になっている。触れる/触れられるが女のなかで「完結」している。
 このときのエディ・レッドメインの指の演技が、とてもおもしろい。目やからだ全体も演技するのだけれど、特に手が演技する。その手の演技は、最初は過剰である。女を発見し、女をなぞっている。学んでいる。手本を「他人」にもとめているところがある。モデルを探している。そのために、覗き窓へ行って、女がどんなポーズをとるのか、手はどんなふうに動かして男を誘うのかを研究(?)したりする。目で女を盗み、手で女を生きる。
 しかし、だんだん女そのものになると、(自分の「ほんとう」が女であるとわかってくると)、不思議なことに、過剰な手の動き(手の演技)は影をひそめる。手は女であることを強調しなくなる。これが、この映画のいちばんおもしろいところかもしれないなあ。からだは痩せて、弱い女のようになるのだが、演技そのものは女を強調しなくなる。わざとらしさがなくなる。女になろうとするのではなく、女になってしまった感じなのだ。
 最初の方では、エディ・レッドメインは男物のスーツを着ているときの方が全体が女っぽい感じ。ドレスを着ると肩の大きさ、手の大きさが目につき、男っぽさが目につく。だから、手で女を演じる必要があったのだろう。けれど、ストーリーが進むに連れて、手の演技をしなくなるにしたがって、ドレスがからだになじんで、男っぽさがなくなる。女を見ている感じになる。演技を見ている感じがなくなる。違和感がなくなる。
 これは、不思議。いやあ、おもしろいなあ。
 アリシア・ビカンダーは、対照的に、「演技」をもっぱら「内面」に集中させている。「肉体」の変かは「目」だけである。最初から最後まで、女の肉体である。まあ、あたりまえなのだけれど、エディ・レッドメインがどんなふうに変わろうが、アリシア・ビカンダーはエディ・レッドメインを愛したときのままの女である、というのが、女の強さをあらわしていて、おっ、すごいと思う。
 男は動揺するが、女は動揺しない、と言い切ってしまうと、いろいろな反論が押し寄せてきそうだが、女はかわらないのだ、きっと。この映画のなかでは、アリシア・ビカンダーは変わらないことによって、エディ・レッドメインを支えつづける。エディ・レッドメインがどんどん変わっていくが、アリシア・ビカンダーは最後まで変わらない。変わらないまま、空に舞うスカーフにエディ・レッドメインが見た「凧」を見たりする。
 この「かわらない」ことを演じつづける演技力というのは、すごい。
 最後になって、リシア・ビカンダーはエディ・レッドメイン(夫)を支えつづけただけではなく、この映画そのものを支えつづけていたのだと気がつく。リシア・ビカンダーはこの演技でアカデミー賞(助演女優賞)を取っているが、なるほどなあ、と感心した。
                       (2016年03月20日、天神東宝4)





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