詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

高橋秀明「浸水する家族」

2016-03-14 10:33:06 | 詩(雑誌・同人誌)
高橋秀明「浸水する家族」(「LEIDEN雷電」9、2016年03月05日発行)

 高橋秀明「浸水する家族」を読みながら「比喩」について考えた。

幼年の僕は古びた木造アパートで母と二人で暮らしていた いや
父もいた いつも何かに怯える存在として その意味では三人で
暮らしていた アパートは二階建で暗い一階に便所と台所があっ
た 汲み取り式便所の深い便槽にはよく大きな溝鼠が出没した 
鼠はどこにでもいた 無知で必死な労働者のようにどこにでもい


 ここに出てくる「比喩」は「労働者のように」。直喩。「鼠」を「労働者のように」と言い換えていることになる。
 「文法(?)」上ではそうなるのだが、読んだ瞬間、違うことを考えてしまう。いや、感じてしまう。書かれていることとは逆に「溝鼠/鼠」の方が「労働者」の「比喩/直喩」なのではないだろうか。
 対象/比喩の関係を入れ替えて読んでみることも必要なのではないか。

きみは薔薇のように美しい/きみは薔薇だ

 こういう「比喩」も、「実感」をそのまま「共有」するためには対象/比喩を入れ替える、読み替えることが必要なのだと思う。入れ替え/読み替える瞬間、対象/比喩が「ひとつ」に結びつき、区別がなくなる。とけあう。どっちがどっちでもいい。

薔薇はきみのように美しい/薔薇はきみだ

 ほら、同じだ。
 だから(というのは、強引なのだが)、高橋の書いている後半部分は、

汲み取り式便所(の深い便槽)にはよく大きな「労働者」が出没した 「労働者」はどこにでもいた 無知で必死な「鼠」のようにどこにでもいた 

 と読み替えてみることも必要なのだ。
 そして、そう読み替えた瞬間、何が見える? 私には「父」が「労働者」に、しかも「無知な労働者」と書かれているように見えてくる。「父」を「無知な労働者/溝鼠」と呼ぶとき、「父」は「人間」ではない。だからこそ、「僕・母・父」の三人暮らしなのに、最初は「父」が除外されてしまう。否定したあとで「いや」と言い直される。

 二連目。

 昨夜どこを捜しても僕はいなかった 僕は昔の父の年齢を超え
ていたのに 二階にも一階にもいなかった 濡れた板張りの手水
場でその関係の蓋を持ち上げると そこから何が躍り出てくるか
わからない恐怖に僕は襲われるが その蓋を開けた空間には 地
下への階段があり 鼠の棲息を知らない無心の僕が 鬼ごっこの
つもりでその中段に隠れている筈だった

 「僕」が「何人」か登場する。「昨夜どこを捜しても僕はいなかった」と書かれるとき「主語」は書かれていない「僕」であり、そこに書かれている「僕」は捜している「対象」である。そして、それは何かの「比喩」である。
 何の「比喩」だろう。
 「僕は昔の父の年齢を超えていたのに」と書かれているので、「いまの僕」であるが、「いまの僕」とは何? 捜している「主語」としての「僕」こそが「いまの僕」ではないのか、という一種の「混乱」を感じるが、書かれている「いまの僕」は「比喩」なのだから、「比喩」を誘い出したもの(対象)を探さなければならない。
 「対象」そのものは「捜している僕」なのだから、「捜す」という「動詞」を基本にして、もっと別なものを見つけ出さないといけない。
 で、詩を読み直すと、「捜す」ということばは「鬼ごっこ」という「比喩」のなかに動いていることがわかる。「鬼ごっこ」は「捜す」と同時に「逃げる」を含む。「逃げる」には「隠れる」という「動詞」も含まれるかもしれない。
 そう思って読むと……。
 「鼠の棲息を知らない無心の僕」が「隠れている」ということばにぶつかる。
 「鼠の棲息を知らない無心の僕」は「地下への階段の途中(中段)」に「隠れている筈だった」。しかし、そこには「いない」。つまり、「どこを捜しても僕はいなかった」ということになる。
 捜している対象の「僕」は「幼年期の僕/鼠の棲息を知らない僕」である。
 ここから一連目戻ると、「父」は「鼠/無知な労働者」であるけれど、「幼年期の僕」には「父=無知な労働者/鼠」という認識はなかった、ということになるだろうか。そういう認識のないときの方が「幸福な家族」である。
 成長するに連れて、「社会/世界」が見えてきた。そこには「母」のことば、「母」が「父」に対してどう向き合っているかということも影響しているかもしれない。「母」の「父」への蔑視が(「父」を「溝鼠」と呼んでいたのかもしれない)影響しているかもしれない。
 「母」の視線で「家族」を見ていた。「母」は「父」を除外して「母と息子(僕)」の「ふたり」を基本にして「家族」を見ていた。それが「母と二人で暮らしていた」という書き出しに感じられる。

 途中を省略して、五連目。

                どこを捜しても僕はいなかっ
た 僕は誰とも見分けのつかない労働者の水死体だった 働きづ
めに働いて僕は繁殖したが 昨夜どこを捜しても 僕はいなかっ
た 古びた木造アパートは二階建で 一階の便所近くの手水場の
床蓋を持ち上げると 地下室では慰楽と苦痛それぞれの棚に 鼠
が走りまわっていた 幼年の僕は母と二人で いや父をふくめる
なら三人で そのアパートの二階で寝起きしていた

 「労働者」が再び登場する。「僕」は「労働者」になっていた。つまり「父」と同じ存在になっていた。「父」は「鼠」という「比喩」で語られたが、「僕」は「水死体」という「比喩」で語られている。
 一連目で「無知で必死な労働者」の「必死な」は、ここでは「働きづめに働いて」と言い直されていることになる。
 きっと「父」は「働きづめに働いた」人間なのである。その「父」と「僕」が重なる。だから、「どこを捜しても僕はいない」。いるのは「父/働きづめに働いた労働者/無知で必死な労働者」がいるだけなのだ。「僕」は「父」なのだ。
 でも、その「無知で必死な労働者」は、ただ「無知で必死な労働者」であるだけなのか。単なる「鼠」か。
 そうではない。

地下室では慰楽と苦痛それぞれの棚に 鼠が走りまわっていた

 そこには「慰楽と苦痛」が「棚」をつくっている。「鼠/父/僕/労働者/人間」が、そこを右往左往している。これは「幼年期の僕」には見えなかった世界である。「父」になることで見えてきた世界である。
 このときの「家族」は「僕」の家族であると同時に、全ての「家族」の「比喩」でもある。
 そんなふうに読んでみた。

言葉の河―高橋秀明詩集
高橋 秀明
共同文化社
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