北川透「スーピ礁」(「KYO峡」10、2016年03月01日発行)
北川透「スーピ礁」は「海の配分(3)」のなかの一篇。
詩はたいてい何が書いてあるかわからないものである。何が書いてあるかわからなくてもわかることがある。というか、「勘違い」し「わかる」と思うこと、できることがある。つまり、「誤読」できることが、ある。
この詩で、私は何を「誤読」できるか。
「スーピ礁」とは何か。「珊瑚礁」のようなものか。海のなかにあり、なおかつ隠れているもの。
「波間に見えたり」「見えなかったり」するもの。一行目と二行目の前半に、そう書かれている。北川はつづけて書いていないのだが、私は、途中を省いて、そう「誤読」する。そして、「波間に見えたり」「見えなかったり」という定義(?)は「礁」に合致するなあ、と思う。
このとき、私がしていることは、北川のことばを正確に読む、あるいは北川のことばに込めた意味を探るということではなくて、実は私が知っていること(覚えていること)を思い出しているだけである。北川のことばに、私の覚えていることを結びつけ、「わかった」と思っているにすぎない。
言い換えると、私は北川のことばを読むふりをしながら、私の知っていることを語っているにすぎない。だから「誤読」。「誤読」だけれど(あるいは「誤読」だからこそ)、それは私の「認識」のなかでは「整合性」がとれてしまう。
一度、こういう「整合性」ができあがると、「論理」はその「整合性」を守ろうとする。「論理」はかってに「論理」自体でひとつの世界をつくろうとする。
北川は、この詩で「スーピ礁」を描写(説明)している、と私の「論理」は思い込む。「わからない」ところを無視して、「わかる」ことを都合よく組み合わせ、「論理」自体をもごまかしていく。「わからない」のに「わかった」ふり、つまり「嘘」をつみかさねていく。
こんな具合に。
一行目「波間に見えたり……渦を巻いて」は、「……」をはさんで、上に書いたことを下のことばで言い直している。「渦を巻いて」は「波」が「渦を巻いて」ということであり、「渦を巻く」ことで「波間」をつくり、その「間」に何かを「見える」ようにする、と読むことができる。上の部分(ことば)と下の部分(ことば)は、「補足」、違いに補い合う関係にある。
あるいは「……」そのものが「スーピ礁」の「波(海/水)」と「隠れている礁」の接点であり、上に見える「波」の下には、そのことばでは描写できない別な存在が隠れているということをあらわしているのかもしれない。そのとき下のことばは「隠れているスーピ礁の岩」に密着した「海」の部分ということになる。
二行目「見えなかったり」の「見えない」は「スーピ礁」が「深く沈み込」んでいるからである。あるいは「スーピ礁」ではなく、海中の波の動きそのものが「深く沈み込」んでいるからである。
三行目。「烈風や潮流」は「やかましくさわぐ」ものである。
四行目。ここで、詩は飛躍する。「スーピ礁」とは無関係に思われる「政治」ということばが出てくる。「夢想」は、まだ、嵐の海(「烈風/潮流/はげしくさわぐ」からの連想)や、「座礁」ということばとなって、「スーピ礁」と結びつくが、「政治」とは結びつかない。
しかし。
「渦を巻いて/深く沈み込み/やかましくさわぐ/ねじくれた影になって」ということばだけを取り出すと、「政治」をめぐる「運動」のように見えてこないか。「権力」への闘争の内部の動きに見えてこないか。
「政治」が「比喩」なのか、「スーピ礁」、あるいは、その「海」そのものが「政治(社会/運動)」の「比喩」なのか。
五行目。「動かない位置が……粉微塵に炸裂し」というのは、そのまま「権力闘争」の描写(比喩)に見えてこないか。「動かない位置」というのは「権力の構図」である。それが「闘争」のなかで、「粉微塵」に「解体(炸裂)」する。「動かない位置」にあったものが、その「位置」を固定化するものといっしょに「関係/結びつき」を失い、ばらばらに、「粉微塵」になる。
それが六行目で「暗闇に吸収され」、吸収されながらも、その暗闇のなかで「逆巻く」。なおも「闘争」を繰り返し、乱れていく。ちょうど「礁」の見えない部分、海中で、波が「渦を巻いて/深く沈み込み/やかましくさわぎ/ねじくれ」るように。
「政治」や「(権力の)夢想」は、このとき「スーピ礁」の比喩か、「スーピ礁」が「政治」や「(権力の)夢想」の比喩か。区別はできないが、ここでは、そういうものが互いの「比喩」になり、あるいは「現実」になり、相互に「他者」を刺戟して動いている。そういう「世界」が見える。「見える」と、私は「誤読」する。
ここで繰り広げられる「闘争」は、七行目で「暴力」と言い直されている。「人工の」という修飾語がついているのは、それが「自然の」ではないことを「意味」するだろう。つまり、「人間の闘争=政治/夢想」を「象徴」していることになる。
どこかの海に実在する「礁」ではなく、人間の意識のなかにある「礁」、「礁」が存在する「場/時間」をめぐることが、ここには書かれているのである。その「場」を、私は、北川が書いている「夢想/政治」ということばを手がかかりに書いてきたが、もちろん「夢想/政治」そのものが、もうすでに何かの比喩/象徴であるかもしれない。北川は私とは別のことを考えているかもしれない。しかし、そういう作者の思いとは無関係に、ただ、私は私が思い出せることを書いているのである。私自身の「記憶」が呼び出されている。
私が思い出しているのは、いわば、私自身の「座礁」の「記憶」である。私自身は「政治的人間」ではなかったが。
そういう「記憶」のあれこれは、やがて「漂白され」、八行目に書かれているように「消滅する」。そんなものがあったということを証明する「証し」もなくなる。はげしい波のなかで「礁」が消滅するように。
あるいは、これは「過去の記憶」ではなく、「未来の記憶」かもしれない。いま起きている「渦を巻いて/深く沈み込み/やかましくさわぎ/ねじくれ」ている「動き」、その「動き」の中心にある「礁」も、「人工の暴力」によって破壊され、漂白され(漂白ということばのなかにある暴力!)、そういうものが「あった」ということさえ否定されるかもしれない。
こういうことが、書いてあるのか。書いていないのか。
それは、わからない。
「わかる」のは「波間に見えたり/見えなかったり」を「渦を巻いて/深く沈み込み」と言い直すことで、「波間に見えたり/見えなかったり」だけでは言えないことを北川は書こうとしている。ひとことでは言えないことを別のことばで言い直すとき、そのことばの運動のなかに、言い直すという運動がほかのもの、たとえば夢想/政治という最初に描写していたものとは無関係なものが「比喩」のように重なり、いったん「比喩」が動きはじめると、こんどは「比喩」が主導権(?)を握ってことばを動かしていく。その結果、何が「現実」で何が「比喩」なのかわからないまま、ことばはかってにことば自身の「世界」をつくることがある、ということ。
そういう「無軌道」というか、「ことばの暴走」に、私は「ことばの肉体」そのものを感じ、同時に「詩」を感じる。北川は単純に「風景」を描写するということを詩にはできない詩人であり、その、どうしても「風景」を逸脱してほかのものを書いてしまうということろに北川が詩人である「根拠/理由/肉体/思想」のようなものを感じる。
で、「詩」なので、私は、これはどんなふうに自分勝手に読もうがいいのだ、とも思う。「誤読」を楽しむ。
北川透「スーピ礁」は「海の配分(3)」のなかの一篇。
波間に見えたり……渦を巻いて
見えなかったり……深く沈み込み
烈風や潮流にも……やかましくさわぐ
夢想や政治にも……ねじくれた影になって
動かない位置が……粉微塵に炸裂し
暗闇に吸収され……逆巻く
人工の暴力浴び……すべての記憶を漂白され
消滅する日迫る……何の証しもなく
詩はたいてい何が書いてあるかわからないものである。何が書いてあるかわからなくてもわかることがある。というか、「勘違い」し「わかる」と思うこと、できることがある。つまり、「誤読」できることが、ある。
この詩で、私は何を「誤読」できるか。
「スーピ礁」とは何か。「珊瑚礁」のようなものか。海のなかにあり、なおかつ隠れているもの。
「波間に見えたり」「見えなかったり」するもの。一行目と二行目の前半に、そう書かれている。北川はつづけて書いていないのだが、私は、途中を省いて、そう「誤読」する。そして、「波間に見えたり」「見えなかったり」という定義(?)は「礁」に合致するなあ、と思う。
このとき、私がしていることは、北川のことばを正確に読む、あるいは北川のことばに込めた意味を探るということではなくて、実は私が知っていること(覚えていること)を思い出しているだけである。北川のことばに、私の覚えていることを結びつけ、「わかった」と思っているにすぎない。
言い換えると、私は北川のことばを読むふりをしながら、私の知っていることを語っているにすぎない。だから「誤読」。「誤読」だけれど(あるいは「誤読」だからこそ)、それは私の「認識」のなかでは「整合性」がとれてしまう。
一度、こういう「整合性」ができあがると、「論理」はその「整合性」を守ろうとする。「論理」はかってに「論理」自体でひとつの世界をつくろうとする。
北川は、この詩で「スーピ礁」を描写(説明)している、と私の「論理」は思い込む。「わからない」ところを無視して、「わかる」ことを都合よく組み合わせ、「論理」自体をもごまかしていく。「わからない」のに「わかった」ふり、つまり「嘘」をつみかさねていく。
こんな具合に。
一行目「波間に見えたり……渦を巻いて」は、「……」をはさんで、上に書いたことを下のことばで言い直している。「渦を巻いて」は「波」が「渦を巻いて」ということであり、「渦を巻く」ことで「波間」をつくり、その「間」に何かを「見える」ようにする、と読むことができる。上の部分(ことば)と下の部分(ことば)は、「補足」、違いに補い合う関係にある。
あるいは「……」そのものが「スーピ礁」の「波(海/水)」と「隠れている礁」の接点であり、上に見える「波」の下には、そのことばでは描写できない別な存在が隠れているということをあらわしているのかもしれない。そのとき下のことばは「隠れているスーピ礁の岩」に密着した「海」の部分ということになる。
二行目「見えなかったり」の「見えない」は「スーピ礁」が「深く沈み込」んでいるからである。あるいは「スーピ礁」ではなく、海中の波の動きそのものが「深く沈み込」んでいるからである。
三行目。「烈風や潮流」は「やかましくさわぐ」ものである。
四行目。ここで、詩は飛躍する。「スーピ礁」とは無関係に思われる「政治」ということばが出てくる。「夢想」は、まだ、嵐の海(「烈風/潮流/はげしくさわぐ」からの連想)や、「座礁」ということばとなって、「スーピ礁」と結びつくが、「政治」とは結びつかない。
しかし。
「渦を巻いて/深く沈み込み/やかましくさわぐ/ねじくれた影になって」ということばだけを取り出すと、「政治」をめぐる「運動」のように見えてこないか。「権力」への闘争の内部の動きに見えてこないか。
「政治」が「比喩」なのか、「スーピ礁」、あるいは、その「海」そのものが「政治(社会/運動)」の「比喩」なのか。
五行目。「動かない位置が……粉微塵に炸裂し」というのは、そのまま「権力闘争」の描写(比喩)に見えてこないか。「動かない位置」というのは「権力の構図」である。それが「闘争」のなかで、「粉微塵」に「解体(炸裂)」する。「動かない位置」にあったものが、その「位置」を固定化するものといっしょに「関係/結びつき」を失い、ばらばらに、「粉微塵」になる。
それが六行目で「暗闇に吸収され」、吸収されながらも、その暗闇のなかで「逆巻く」。なおも「闘争」を繰り返し、乱れていく。ちょうど「礁」の見えない部分、海中で、波が「渦を巻いて/深く沈み込み/やかましくさわぎ/ねじくれ」るように。
「政治」や「(権力の)夢想」は、このとき「スーピ礁」の比喩か、「スーピ礁」が「政治」や「(権力の)夢想」の比喩か。区別はできないが、ここでは、そういうものが互いの「比喩」になり、あるいは「現実」になり、相互に「他者」を刺戟して動いている。そういう「世界」が見える。「見える」と、私は「誤読」する。
ここで繰り広げられる「闘争」は、七行目で「暴力」と言い直されている。「人工の」という修飾語がついているのは、それが「自然の」ではないことを「意味」するだろう。つまり、「人間の闘争=政治/夢想」を「象徴」していることになる。
どこかの海に実在する「礁」ではなく、人間の意識のなかにある「礁」、「礁」が存在する「場/時間」をめぐることが、ここには書かれているのである。その「場」を、私は、北川が書いている「夢想/政治」ということばを手がかかりに書いてきたが、もちろん「夢想/政治」そのものが、もうすでに何かの比喩/象徴であるかもしれない。北川は私とは別のことを考えているかもしれない。しかし、そういう作者の思いとは無関係に、ただ、私は私が思い出せることを書いているのである。私自身の「記憶」が呼び出されている。
私が思い出しているのは、いわば、私自身の「座礁」の「記憶」である。私自身は「政治的人間」ではなかったが。
そういう「記憶」のあれこれは、やがて「漂白され」、八行目に書かれているように「消滅する」。そんなものがあったということを証明する「証し」もなくなる。はげしい波のなかで「礁」が消滅するように。
あるいは、これは「過去の記憶」ではなく、「未来の記憶」かもしれない。いま起きている「渦を巻いて/深く沈み込み/やかましくさわぎ/ねじくれ」ている「動き」、その「動き」の中心にある「礁」も、「人工の暴力」によって破壊され、漂白され(漂白ということばのなかにある暴力!)、そういうものが「あった」ということさえ否定されるかもしれない。
こういうことが、書いてあるのか。書いていないのか。
それは、わからない。
「わかる」のは「波間に見えたり/見えなかったり」を「渦を巻いて/深く沈み込み」と言い直すことで、「波間に見えたり/見えなかったり」だけでは言えないことを北川は書こうとしている。ひとことでは言えないことを別のことばで言い直すとき、そのことばの運動のなかに、言い直すという運動がほかのもの、たとえば夢想/政治という最初に描写していたものとは無関係なものが「比喩」のように重なり、いったん「比喩」が動きはじめると、こんどは「比喩」が主導権(?)を握ってことばを動かしていく。その結果、何が「現実」で何が「比喩」なのかわからないまま、ことばはかってにことば自身の「世界」をつくることがある、ということ。
そういう「無軌道」というか、「ことばの暴走」に、私は「ことばの肉体」そのものを感じ、同時に「詩」を感じる。北川は単純に「風景」を描写するということを詩にはできない詩人であり、その、どうしても「風景」を逸脱してほかのものを書いてしまうということろに北川が詩人である「根拠/理由/肉体/思想」のようなものを感じる。
で、「詩」なので、私は、これはどんなふうに自分勝手に読もうがいいのだ、とも思う。「誤読」を楽しむ。
北川透 現代詩論集成1 鮎川信夫と「荒地」の世界 | |
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