豊原清明「三枚シナリオ『雀、ポツンと。』」(「白黒目」60、2016年03月発行)
豊原清明「三枚シナリオ『雀、ポツンと。』」の、最初のシーン。
「恋なんて……」は短歌。その前に書かれている「情景」が、ぴったりと重なる。いや、ぴったり重なるというのは変か。鳩を追っ払い雀に餌をやる男(まさお)が何を感じているかが、「情景(描写された過去)」にもどって、それを「いま」に引き返させて、その「いま」のなかに「心情」を噴出させるといえばいいのか。
「情景(見たもの)」が短歌(ことば)のなかで、もう一度動く。しかも、そこに「自己主張」がある。それも、とても奇妙な「自己主張」だ。雀に餌をやっているはずなのに、短歌のなかでは餌を食べている雀になっている。餌をやりながら/餌を食べる雀になっている。この接続と切断の間に「恋」が割り込んでいる。恋が餌をやる/餌を食べる/ここにいるということのなかに割り込み、「情景」を切断しながら、接続させる。
男(まさお)を、情景のなかに埋め込み、同時に浮かび上がらせる。
しかも、その男(まさお)の「描写」が「センチメンタル(恋)」に染まっていない。孤独/悲しみがあるはずなのだけれど、「悲しい」という「意味」に染まっていない。うつむいたり、肩を落としたり、自分の影を見つめたりしていない。
「ぼうっと、口を開けて、立っている」
無。
何もない。その何もない男のなかで、「恋なんて遠き街へと去ってゆく鳩みたいなもの我は雀だ!」が過激に動いている。その過激さが、男を、そこに立たせている。
情景と男は、共存しているけれど、「意味」を通い合わせない。通い合わせないことによって、そこに、いままでの「情景(文学)」の「定型」を破り、「事実」として、過激に(過剰なものとして)生まれて来る。
豊原のシナリオは、いつでも「事実」を生み出している。
次のシーンは教会で洗礼を受け、キリスト教徒になったあとのことを描いている。やはりまさおの独白がある。
たぶん、ひとが恐ろしいからキリスト教徒になったのだろうけれど、救われることはなく、逆に恐ろしさが増して来る。
この矛盾。
「君」は「ひとり」なのに「群れ」になる。その「恐ろしさ」。「群れ」のなかで男(まさお)は、さらに「ひとり」になる。
三つ目のシーンは再び公園。
ここでも男(まさお)は男でありながら雀であり、雀でありながら男である。そのとき「雀」は「比喩」ではなく、何かもっと違ったものだ。「比喩」が成立するとき、そこには「自/他」の区別がある。ここには区別がない。区別がないけれど、雀と人間という「ふたつ」の存在としてあらわれている。
この「ふたつ(まさおと雀)」が「ひとつ」であるとは、どういうことか。
「場」が「ひとつ」なのだ。「場」のなかに「まさおと雀」という「ふたつ」が存在する。(ほかにも、まりなが通りすぎる形で存在する。)しかし、その「ふたつ」は「ふたつ」のまま離れて存在するのではなく、超越的なスピードで入れ替わり、往復する。
ふいに、私は「遠心/求心」という俳句のことばを思い出す。
何かが「自己」を突き破り、一気に外へ出ていく。何かが「自己」を突き破り、一気に内に入り込む。それが同時に起きる。すると、そこに「自己」ではない何かが「場」そのものとして生まれる。「場」が「事実」になる。
そんな感じかなあ。
そのとき「恋(ひと恋しき)」だとか「ひと恐ろしき」という「心情(自己主張)」とは無関係に、ただ「場」が「非情」として、生まれる。その「非情」がとても美しい。
「見てみい、きれいやぞ!」としか言いようなのない「場」。「見る」ときのみ、そこに生まれて来る「場(夕焼け)」。
このときのことばは「独白」に見えるかもしれないが、独白ではない。「雀に言う」ときちんと書かれている。そして、矛盾を承知で書くのだが、「雀に言う」からこそ、「独白」にもなる。「矛盾」のなかで、詩が、瞬間的に生まれる。
「マルコポーロポーン、マルコポーロポーン。」も、無意味な音が美しい。
豊原清明「三枚シナリオ『雀、ポツンと。』」の、最初のシーン。
○ まさおの日常「公園」(朝)
まさおが、公園に来る。鳩が群れて来る。
両手をあげて、おっぱらう、まさお。
雀にだけ餌をやる男。
まさおの独白「恋なんて遠き街へと去ってゆく鳩みたいなもの我は雀だ!」
○ まさお、ぼうっと、口を開けて、立っている
「恋なんて……」は短歌。その前に書かれている「情景」が、ぴったりと重なる。いや、ぴったり重なるというのは変か。鳩を追っ払い雀に餌をやる男(まさお)が何を感じているかが、「情景(描写された過去)」にもどって、それを「いま」に引き返させて、その「いま」のなかに「心情」を噴出させるといえばいいのか。
「情景(見たもの)」が短歌(ことば)のなかで、もう一度動く。しかも、そこに「自己主張」がある。それも、とても奇妙な「自己主張」だ。雀に餌をやっているはずなのに、短歌のなかでは餌を食べている雀になっている。餌をやりながら/餌を食べる雀になっている。この接続と切断の間に「恋」が割り込んでいる。恋が餌をやる/餌を食べる/ここにいるということのなかに割り込み、「情景」を切断しながら、接続させる。
男(まさお)を、情景のなかに埋め込み、同時に浮かび上がらせる。
しかも、その男(まさお)の「描写」が「センチメンタル(恋)」に染まっていない。孤独/悲しみがあるはずなのだけれど、「悲しい」という「意味」に染まっていない。うつむいたり、肩を落としたり、自分の影を見つめたりしていない。
「ぼうっと、口を開けて、立っている」
無。
何もない。その何もない男のなかで、「恋なんて遠き街へと去ってゆく鳩みたいなもの我は雀だ!」が過激に動いている。その過激さが、男を、そこに立たせている。
情景と男は、共存しているけれど、「意味」を通い合わせない。通い合わせないことによって、そこに、いままでの「情景(文学)」の「定型」を破り、「事実」として、過激に(過剰なものとして)生まれて来る。
豊原のシナリオは、いつでも「事実」を生み出している。
次のシーンは教会で洗礼を受け、キリスト教徒になったあとのことを描いている。やはりまさおの独白がある。
何処からかやってきたりし君が群れ聖徒になれどひと恐ろしき
たぶん、ひとが恐ろしいからキリスト教徒になったのだろうけれど、救われることはなく、逆に恐ろしさが増して来る。
この矛盾。
「君」は「ひとり」なのに「群れ」になる。その「恐ろしさ」。「群れ」のなかで男(まさお)は、さらに「ひとり」になる。
三つ目のシーンは再び公園。
○ 公園(夕)
まさおが雀に餌をあげる。
まさお「マルコポーロポーン、マルコポーロポーン。」
じつにうれしそうに食べる雀と、笑顔満面のまさお。
まりなが通りかかる。
まりな、じっと見て、プイとして、家に帰る。
春夕焼け
まさお「(雀に言う)見てみい、きれいやぞ!」
ここでも男(まさお)は男でありながら雀であり、雀でありながら男である。そのとき「雀」は「比喩」ではなく、何かもっと違ったものだ。「比喩」が成立するとき、そこには「自/他」の区別がある。ここには区別がない。区別がないけれど、雀と人間という「ふたつ」の存在としてあらわれている。
この「ふたつ(まさおと雀)」が「ひとつ」であるとは、どういうことか。
「場」が「ひとつ」なのだ。「場」のなかに「まさおと雀」という「ふたつ」が存在する。(ほかにも、まりなが通りすぎる形で存在する。)しかし、その「ふたつ」は「ふたつ」のまま離れて存在するのではなく、超越的なスピードで入れ替わり、往復する。
ふいに、私は「遠心/求心」という俳句のことばを思い出す。
何かが「自己」を突き破り、一気に外へ出ていく。何かが「自己」を突き破り、一気に内に入り込む。それが同時に起きる。すると、そこに「自己」ではない何かが「場」そのものとして生まれる。「場」が「事実」になる。
そんな感じかなあ。
そのとき「恋(ひと恋しき)」だとか「ひと恐ろしき」という「心情(自己主張)」とは無関係に、ただ「場」が「非情」として、生まれる。その「非情」がとても美しい。
「見てみい、きれいやぞ!」としか言いようなのない「場」。「見る」ときのみ、そこに生まれて来る「場(夕焼け)」。
このときのことばは「独白」に見えるかもしれないが、独白ではない。「雀に言う」ときちんと書かれている。そして、矛盾を承知で書くのだが、「雀に言う」からこそ、「独白」にもなる。「矛盾」のなかで、詩が、瞬間的に生まれる。
「マルコポーロポーン、マルコポーロポーン。」も、無意味な音が美しい。
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