大西美千代「四国にて」(「橄欖」101 、2016年03月20日発行)
詩を読む、あるいは文学を読むとは、筆者のことば(思想)を読むというよりは、自分自身の欲望や本能を読み直すということだと思う。
だから、ときどき困る。特に「わからない」作品に出会ったときが困ってしまう。
たとえば、大西美千代「四国にて」。
女が男を待っている。男は去って行った。けれど、女は待っていると言う。「わたくしはわたくしであることはやめましょう」というのは、男に会って、「わたくし」ではなくなってしまった。以前とは違う人間になった。もう、もとには戻らない、そう言っているように思える。それくらい、男を愛している。そういうことが書いてあるのだと思って、読む。そのとき、私は、きっと女にそんなふうに言わせてみたい、と思っている。いい気なもんだね。
二連目。
ああ、これは何かなあ。よくわからない。春が近づき、男は飛行機で、どこかへ行ってしまったのか。一連目とつづけて読むと、どこかへ行ってしまったけれど、桜の咲くころ、また来てね、と待っていることになる。
でも、そのあとは?
「貝」ということばは、そのまま女の比喩になる。もちろん性器の比喩である。だから、ここは女が男とのセックスを思い出していることになるのかな? エクスタシーのときの息がどこまでもどこまでも上っていく。まるで「息」そのものがエクスタシーの瞬間の「わたしく」の比喩であるかのように。
「美しい空気の珠が海面にのぼっていく」は、それこそ「美しい」一行だ。
いいなあ、これ、見たいなあ。
そう思うとき、私は、女をそんなふうにエクスタシーに連れ去りたいと欲望していることになる。いや、女になってエクスタシーに味わいたいと思っている。
まあ、ここまでは、妄想。妄想という、欲望、本能だね。
問題は、このあと。三連目。
「正しくないこと」というのは、女と男の関係が、いわゆる「不倫」だったということか。そのときの「美しかった」は? 肉体。官能。「美しさ」は「倫理」を超えているんだね。「倫理」とは無縁の、別の「美しさ」。
「糾弾」は「倫理的糾弾」だろう。「肉体の愉悦」が「糾弾されている」ことになる。けれど、そんな「糾弾」なんかでは、どんな傷もつかない。「糾弾」を逆に破壊してしまう「美しさ」がある。
そういうものを感じていた、ということだろう。
これは「自信」というものかもしれない。「肉体の自信/欲望の自信/本能の自信」。強靱な美しさが、そのまま「こころの美しさ」にもなる。
ただ……。
ただ、どうしたのだろう。
官能の花は美しく咲いて、散る。散った、というべきか。それが「ただ」。つまり、「美しさ」には終りがある、ということ?
まあ、そんなふうに読めば、そこにありふれた「不倫」のストーリーが浮かび上がるのだけれど。
一連目に出てきたことばが、ここでもう一度出てくる。
このときの「意味」は?
男と出会い、官能に目覚め、もう以前のわたしくではなくなった。「倫理」を生きる「わたくし」をやめて、欲望の美しさを生きるわたしくになった、ということだろうか。一連目と同じ「意味」だろうか。
同じなら、なぜ「花は散る」ということばがあるのか。
「散る」を、自分ではなくなる、「エクスタシー」の比喩ととらえれば、一連目と同じ「意味」になるかもしれない。
むずかしいなあ。
単に、昔の女ではなくなった。「あなた」と出会う前の「倫理的な女」であることを「やめた」と単純に読んでいいのか。
逆に、「あなた」は去って行ったので、もう官能の愉悦を追う「わたくし」であることをやめたのか。「倫理的」に生きる昔へ戻るのか。
それとも、もっともっと「官能の美しさ」のなかへ生まれ変わるのか。一連目に「何度でも生まれ変わって」とあったが、「官能」に導かれて、さらにさらに「美しくなる」と宣言しているのか。
「あなた」とセックスしていたときよりも、私はもっともっと美しくなって生まれ変わる。そうなった私に、「あなたは気づいてくださるでしょうか」。
さて、どう読む?
私は、いちばん最後に書いたふうに読みたいのである。「ただ//花は散る」という「ためらい傷(?)」のようなことばは、ぱっと捨ててしまって、生まれ変わっている「わたくし」を生きていると読みたい。「ただ//花は散る」という傷は、「美しさ」を引き立てるための「血」だと思いたい。「血」は「美しさ」を引き立てるものである。
詩を読む、あるいは文学を読むとは、筆者のことば(思想)を読むというよりは、自分自身の欲望や本能を読み直すということだと思う。
だから、ときどき困る。特に「わからない」作品に出会ったときが困ってしまう。
たとえば、大西美千代「四国にて」。
花の咲くころに
また来てください
ここは息もできないほどの桜の森で
わたくしは
何度でも生まれ変わって
あなたを待ちましょう
まだ固い木の芽のような枝の先に
粒粒の思いを固めて
ああしかしもう
わたくしはわたくしであることはやめましょう
女が男を待っている。男は去って行った。けれど、女は待っていると言う。「わたくしはわたくしであることはやめましょう」というのは、男に会って、「わたくし」ではなくなってしまった。以前とは違う人間になった。もう、もとには戻らない、そう言っているように思える。それくらい、男を愛している。そういうことが書いてあるのだと思って、読む。そのとき、私は、きっと女にそんなふうに言わせてみたい、と思っている。いい気なもんだね。
二連目。
鳥越トンネル
男が野鳥を追って空を飛ぶ
海に沈んでいる貝がひとつ
身じろぎをして
ほっと息を吐く
美しい空気の珠が海面にのぼっていく
ぬるい水が
春が近いことを知らせるから
そのまま空中に上っていく
ああ、これは何かなあ。よくわからない。春が近づき、男は飛行機で、どこかへ行ってしまったのか。一連目とつづけて読むと、どこかへ行ってしまったけれど、桜の咲くころ、また来てね、と待っていることになる。
でも、そのあとは?
「貝」ということばは、そのまま女の比喩になる。もちろん性器の比喩である。だから、ここは女が男とのセックスを思い出していることになるのかな? エクスタシーのときの息がどこまでもどこまでも上っていく。まるで「息」そのものがエクスタシーの瞬間の「わたしく」の比喩であるかのように。
「美しい空気の珠が海面にのぼっていく」は、それこそ「美しい」一行だ。
いいなあ、これ、見たいなあ。
そう思うとき、私は、女をそんなふうにエクスタシーに連れ去りたいと欲望していることになる。いや、女になってエクスタシーに味わいたいと思っている。
まあ、ここまでは、妄想。妄想という、欲望、本能だね。
問題は、このあと。三連目。
正しくないことは美しかった
糾弾されることは
何ほどのことでもなかった
ただ
「正しくないこと」というのは、女と男の関係が、いわゆる「不倫」だったということか。そのときの「美しかった」は? 肉体。官能。「美しさ」は「倫理」を超えているんだね。「倫理」とは無縁の、別の「美しさ」。
「糾弾」は「倫理的糾弾」だろう。「肉体の愉悦」が「糾弾されている」ことになる。けれど、そんな「糾弾」なんかでは、どんな傷もつかない。「糾弾」を逆に破壊してしまう「美しさ」がある。
そういうものを感じていた、ということだろう。
これは「自信」というものかもしれない。「肉体の自信/欲望の自信/本能の自信」。強靱な美しさが、そのまま「こころの美しさ」にもなる。
ただ……。
ただ、どうしたのだろう。
花は散る
わたくしをやめたわたくしに
あなたは気づいてくださるでしょうか
官能の花は美しく咲いて、散る。散った、というべきか。それが「ただ」。つまり、「美しさ」には終りがある、ということ?
まあ、そんなふうに読めば、そこにありふれた「不倫」のストーリーが浮かび上がるのだけれど。
わたくしをやめたわたくし
一連目に出てきたことばが、ここでもう一度出てくる。
このときの「意味」は?
男と出会い、官能に目覚め、もう以前のわたしくではなくなった。「倫理」を生きる「わたくし」をやめて、欲望の美しさを生きるわたしくになった、ということだろうか。一連目と同じ「意味」だろうか。
同じなら、なぜ「花は散る」ということばがあるのか。
「散る」を、自分ではなくなる、「エクスタシー」の比喩ととらえれば、一連目と同じ「意味」になるかもしれない。
むずかしいなあ。
単に、昔の女ではなくなった。「あなた」と出会う前の「倫理的な女」であることを「やめた」と単純に読んでいいのか。
逆に、「あなた」は去って行ったので、もう官能の愉悦を追う「わたくし」であることをやめたのか。「倫理的」に生きる昔へ戻るのか。
それとも、もっともっと「官能の美しさ」のなかへ生まれ変わるのか。一連目に「何度でも生まれ変わって」とあったが、「官能」に導かれて、さらにさらに「美しくなる」と宣言しているのか。
「あなた」とセックスしていたときよりも、私はもっともっと美しくなって生まれ変わる。そうなった私に、「あなたは気づいてくださるでしょうか」。
さて、どう読む?
私は、いちばん最後に書いたふうに読みたいのである。「ただ//花は散る」という「ためらい傷(?)」のようなことばは、ぱっと捨ててしまって、生まれ変わっている「わたくし」を生きていると読みたい。「ただ//花は散る」という傷は、「美しさ」を引き立てるための「血」だと思いたい。「血」は「美しさ」を引き立てるものである。
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