詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

小津安二郎監督「東京物語」(★★★★★)

2016-03-10 10:00:21 | 午前十時の映画祭
監督 小津安二郎 出演 笠智衆、東山千栄子、原節子、杉村春子、山村聰

 笠智衆の台詞回しは独特である。妙にのんびりしたところがある。杉村春子の台詞回しと比較すると特にその違いが目立つ。杉村春子は「肉体」の動きと「ことば」の動きがぴったり重なる。笠智衆の場合、「肉体」が動いたあと、かなり遅れて「ことば」が動く。そして、そのことばもゆっくりしているので、さらに「間延び」した感じになる。最初は奇妙な感じなのだが、見ているとだんだんそれが「快感」になる。
 どうして「快感」なのだろう。
 笠智衆の「ことば」が相手に向けられているというよりも、自分自身に言い聞かせている「ことば」だからである。
 冒頭、東京へ逝く準備をしながら、笠智衆が東山千栄子に「空気枕をちゃんと入れたか」というやりとりをする。「お父さんがもっているのでは?」「おまえに渡したさ」というようなやりとりのあと、「あっ、あった」と笠智衆が言う。東山千栄子は何も言い返さない。このときの「あ、あった」ということばは、「そうか、ここにあったか、自分が間違えていたのか」というようなことを、さらには「おまえに難癖つけて申し訳なかったなあ」というニュアンスも含んでいるのだが、そういう「ことば」はすべて自分自身に言い聞かせているもの。その「自分自身への言い聞かせ」が、東山千栄子に伝わるのはもちろんだが、スクリーンを見ている自然に観客に伝わってくる。
 これが、気持ちがいい。
 「自分自身への言い聞かせ」なので、相手に伝わるかどうかは第一義ではない。伝わらなかったら伝わらなかったでかまわない。
 これが映画全体のストーリーと不思議な形で重なる。
 東京と大阪に住む子供たちを訪ねる。せっかく会いに行ったのに、杉村春子や山村聰は、笠智衆と東山千栄子をぞんざいにあつかう。自分の仕事(生活)に追われていて、親の相手をしている時間がない。笠智衆にはそれがさびしいが、そのさびしさを杉村春子らには言わない。言わなくても通じる相手(東山千栄子)と共有するだけである。「ことば」にしても、共有できないものは共有できない。「ことば」にしなくても、共有できるものは共有できる。
 その、「ことば」をもっぱら自分自身への「言い聞かせ」としてつかっている笠智衆が一回だけ、真剣に相手に向かって「ことば」を言う。原節子に対して、「東山千栄子の形見に時計を受け取ってくれ」というシーン。そこでも「自分自身への言い聞かせ」の要素はあるのだが、自分に言い聞かせるよりも、原節子に言い聞かせるという感じが強く出ている。
 これが感動的なのだが。
 この感動には、「自分自身への言い聞かせる」という行為と重なるものがある。「自分自身への言い聞かせ」とは、いわば「わかっていることば」を「くりかえす」こと。(杉村春子は基本的に「ことば」を繰り返さない。前へ前へと進んでゆく「ことば」を話す。)
 で、そのときの「繰り返し」というのが、東山千栄子が原節子のアパートに泊まったとき、原節子に言った「ことば」と「同じ」なのである。「同じ」だから、「繰り返し」というのだが……。「息子が死んで八年になる。赤の他人と言っていいのに、こんなに親切にしてくれる。申し訳なく思う。あんたには幸せになってもらいたい云々」。「繰り返し」によって、それは単に「思っていること」を突き抜けて「真実のことば=まこと」になる。
 いいなあ。
 さらにすばらしいのは、こういう感動的な瞬間を、笠智衆が明るい笑顔で語ることである。「ことば」は原節子に向けて言ったものだが、「おしつけ」にはしたくない。受けとめてほしいのは「ことば」ではなく、この「笑顔」だという感じ。もちろん、「受けとめてほしい」とは、言わない。「笑顔」はただ「笑顔」を誘うだけである。笑顔を見ると誰でも反射的に笑顔に誘われる。その笑顔。
 笠智衆の演技は、この「誘う」という部分が非常に大きいのだろう。「こんな気持ちなのだ、わかってほしい」と誰かに訴えるのではなく、「こんな気持ちでいるよ」という感じで、相手を誘うのである。けっして押しつけない。
 この「押しつけない」と関連して。
 一か所、笠智衆の「肉体の演技」でぐいとスクリーンのなかに引き込まれたシーンがある。東山千栄子が死ぬ。そのあと、ひとり席を立つ。悲しみがこみあげてくる。それを、ぐいと、「肉体」のなかに押しとどめる。悲しみを「のみこむ」。この「のど」の動きがリアルだ。あ、悲しみをのみこんでいる、というのが伝わってくる。

 原節子は、現代の女優でいうとケイト・ウィンスレットがいちばん近いかもしれない。からだがどっしりしていて不思議な安定感がある。最後まで尾道に残って笠智衆の家にいるシーン。ローアングルで原節子の足が映ったとき、その足のたくましさ(大きさ)に胸を打たれた。しっかりと大地を踏みしめている、という感じがする。
 原節子は、ケイト・ウィンスレットのように「感情」を剥き出しにするような演技をしていないが、そういう演技もきっとできただろうなあ、と思った。いまはやりの、ほっそりしたからだでは抱え込みきれない「感情」の「大きさ」を表現できる女優かもしれない。「感情」を「隠せる」女優かもしれない。
 原節子はクライマックスで「私、ずるいんです」と言う。その「ずるさ」とは「感情」を隠している(本心を隠している)ということなのだが、この「感情を隠す」を「気持ちを押しつけない」と言い直すと、どこかで笠智衆と重なる。
 「気持ちを押しつけない」笠智衆が、おだやかに原節子の「感情」を「誘う」。その「誘い」に反応して原節子の「隠していた感情」が思わず動いてしまう。そのとき、何と言えばいいのか、「ことばにならない共感」のようなものが、二人の間で行き来する。
 これは「秋刀魚の味」で花嫁衣装の岩下志摩が「お父さん……」と挨拶しようとすると、笠智衆が「いいから、いいから。わかっているから」と答えるシーンに共通する。
 「わかっている」というか、「わかる」が、ことばもなく「動く」、「わかる」が「生まれる」と言ってもいいかもしれない。そこには「いいから……」という許容、いや「言わなくていいから」というつつみこむような抱擁がある。
 思い出すとジーンとくる、あとから「わかる」映画である。
              (午前十時の映画祭、天神東宝4、2016年03月08日)






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松竹
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