吉田文憲「滞留」(「イリプスⅡ」18、2016年03月10日発行)
吉田文憲「滞留」の書き出しの一行。
うーん、かっこいい。魅力的だ。でも、かっこのよさに見とれてしまって、何が書いてあるかわからない。わからなくてもいいのが詩。かっこいいと感じれば、それだけで詩なのだけれど……。
「たどれない」道を「たどっている」という矛盾が、まずかっこいい。その「道」が「だれかの呼吸」というのもかっこいい。「道」は「呼吸」なのか。「呼吸」が比喩かな? 道が比喩かな? 道というのは「ことば」かもしれないなあ、などと思ったりもする。「言ったこと」を「道」といういい方をするんじゃなかったっけ、とぼんやり思い出したりする。
かっこいい、とだけ書いていたのでは感想にならないので、ゆっくり読んでみる。
二連目にも「呼吸」が出てくる。「死後/生の残余」(一連目)と「姿を消した/ずうっと残りつづける」(二連目)が重なり合う。「いなくなったことであらわになる」というのは「死んでしまったひとのことば/語ったこと/声」のようなものかなあ。「遺言」のようなものかなあ。「あれは、ああいう意味だったのか」と死んでからわかることもあるね。死んだあと「生まれ/生まれつづける」あれこれの思いか。
そういう「あれこれ」を、まあ、特定しないまま、ぼんやりと考える。
それから「わたし/おまえ/あなた/その人」と複数の人称が登場していることも気に留める。「だれ」という特定を避けた人称も登場している。
「わたし」以外は「わたしとは別の人」の、複数の呼称だろうか。「おまえ/あなた/その人」は「ひとり」かもしれない。そのときどきの向き合い方で呼称がかわっているだけかもしれない。
大切な人の残したことばを読んでいる。うまくたどれない。けれど、たどろうとしている。そのひとといっしょに体験したこと、りんごの匂いや、川明かりを思い出したりしている。生きているときは思い出さなかったけれど、死んでしまって思い出す(いなくなったことであらわになる)ということかなあ。
わからないけれど、ともかく、そこには「複数」の人称が登場しているということだけは、間違いない。
これが、後半、変化する。(私がかってに「後半」と読んでいるだけで、ほんとうは区別がないかもしれないのだが。)
後半は「わたし/わたしたち」という呼称しかない。「わたしたち」は「わたし」が存在しないことにはありえない「呼称」である。「わたし」が「わたしたち」という呼称を成立させている。そのとき「わたし」以外の「わたしたち」とはだれか。きっと「おまえ/あなた/その人」だろう。前半では状況に応じて別の呼称で呼んでいたが、後半では「わたしたち」と「ひとつ」の呼称で呼んでいる。
「一体感」が強調されている。それは「かんがえつづけ」た結果なのかもしれない。考えるということは、対象と一体になること。
そう考えると、「わたしはなおもかんがえつづけなければいけない。」を中心にして、前半/後半にわかれるのかもしれない。前半を後半で、考え直している。言い直していると読むことができるかもしれない。
「そこで生まれ、そこでたえず生まれつづけているもの」は「その人がいなくなったことであらわになるもの」だろう。これは最後の方で再び「消えてもまだそこで息づいているもの」と言い直されている。
「ここにいて、ここを通り抜け」「見ていても見えないもの」という矛盾は、「たどれない道をたどっている」という矛盾と重なる。「息づいているもの」は「呼吸」。「呼吸」のなかには「息」がある。
「照り返し」ということばが一連目にあるが、前半と後半は、違いに照り返しながら何かを浮かび上がらせようとしているように思える。その浮かびあがってくる「核心」が、たぶん「呼称」の変化なのだ。「わたし/おまえ/あなた/そのひと」が「わたしたち」になる関係が、吉田が書こうとしているもののように感じられる。
「わたしたち」は「一体」であるけれど、そこには「隔たり」がほんとうは存在している。「隔たり」は、「おまえ/あなた/その人」が死んでしまうと「肉体的/物理的」には「確定的」になる。しかし、その絶対的(確定的)な「隔たり」、けっして触れることのできない切断としての「隔たり」は、逆に、考える(想像する)ときにあらゆる「物理的障害」を「無」にしてしまう。消してしまう。「隔たり」というのは「おまえ/あなり/その人」と「わたし」が存在するときに「物理的」に生まれるが、一方がいないから「物理的」制約(条件)はなくなるから、考える(想像する)とき、それはないものとして考えることができる。
この関係を「呼吸」ということばで「象徴」しているのかもしれない。「吸う」「吐く」という矛盾した動きのなかで成立する「呼吸」。
「隔たり」は「ある」、同時に「ない」。そういうことは、「おまえ/あなた/その人」がいたときも、いなくなってからも、同じようにあったり、なかったりする。
「おまえ/あなた」の「ことば」、その「意味」だけではなく、その「ことば」のなかの「呼吸」のようなもの、微妙なニュアンス。それは、「おまえ/あなた」の不在(死/姿を消す)によって、いっしょにいたときよりも鮮烈にひびいてくる。「隔たり」として、目の前にあらわれてくる。そして「隔たり」を感じれば感じるほど、逆に何かが「密着」を強くする。
以前も「隔たり」はあった、「ことば/道」のすべてをたどれたわけではないのだが、その不可能な部分を「おまえ/あなた」の存在が隠していた。独りになってみると、その「隠されていたもの」が「隔たり」として見えてくる、ということかもしれない。
「見えてくる」けれど、その「見える」は「わたしのなか」でおきていること。考える(想像する)ときの「見える」。「不在」が「見える」を可能にする。「隔たり」が「隔たり」を消す。「隔たり」は「ある」けれど「ない」。そこにある「こと」は「見える」けれど「見えない」、「見えない」けれど「見える」。
そういうことを「呼吸(吸う/吐くという矛盾)」ということばのなかで語ろうとしているのかもしれない。
そういうものを最後で、
言っている。「わたし」がたどりきれない何か。「まだ来ない」の「ない」は「たどれない」の「ない」である。「たどる」ことができたとき、それは「来た」にかわる。ほんとうは「来ている」、けれど「姿をあらわしていない」が「滞留」ということだろう。そういうものが「ある」と「わたし」は「かんがえつづけている」ということなのかもしれない。
何かしら、強い愛のようなものを感じさせる詩である。
吉田文憲「滞留」の書き出しの一行。
たどれない道をたどっている。わたしはだれの呼吸のなかを歩いているのだろう。
うーん、かっこいい。魅力的だ。でも、かっこのよさに見とれてしまって、何が書いてあるかわからない。わからなくてもいいのが詩。かっこいいと感じれば、それだけで詩なのだけれど……。
「たどれない」道を「たどっている」という矛盾が、まずかっこいい。その「道」が「だれかの呼吸」というのもかっこいい。「道」は「呼吸」なのか。「呼吸」が比喩かな? 道が比喩かな? 道というのは「ことば」かもしれないなあ、などと思ったりもする。「言ったこと」を「道」といういい方をするんじゃなかったっけ、とぼんやり思い出したりする。
かっこいい、とだけ書いていたのでは感想にならないので、ゆっくり読んでみる。
たどれない道をたどっている。わたしはだれの呼吸のなかを歩いているのだろう。
りんごの匂いのなかを流れていた。その下に白く川あかりが見えていた。
その死後の生の残余の照り返しがなければ、その川からの遠い光がなければ、
ここには、おまえからの歌も、その声のどんな呼びかけも届かないだろう。
紙のように薄くなってしまった呼吸について。
あなたが姿を消したあともずうっと残りつづけるものについて。
その人がいなくなったことであらわになるものについて。
わたしはなおもかんがえつづけなければいけない。
そこで生まれ、そこでたえず生まれつづけているものについて。
二連目にも「呼吸」が出てくる。「死後/生の残余」(一連目)と「姿を消した/ずうっと残りつづける」(二連目)が重なり合う。「いなくなったことであらわになる」というのは「死んでしまったひとのことば/語ったこと/声」のようなものかなあ。「遺言」のようなものかなあ。「あれは、ああいう意味だったのか」と死んでからわかることもあるね。死んだあと「生まれ/生まれつづける」あれこれの思いか。
そういう「あれこれ」を、まあ、特定しないまま、ぼんやりと考える。
それから「わたし/おまえ/あなた/その人」と複数の人称が登場していることも気に留める。「だれ」という特定を避けた人称も登場している。
「わたし」以外は「わたしとは別の人」の、複数の呼称だろうか。「おまえ/あなた/その人」は「ひとり」かもしれない。そのときどきの向き合い方で呼称がかわっているだけかもしれない。
大切な人の残したことばを読んでいる。うまくたどれない。けれど、たどろうとしている。そのひとといっしょに体験したこと、りんごの匂いや、川明かりを思い出したりしている。生きているときは思い出さなかったけれど、死んでしまって思い出す(いなくなったことであらわになる)ということかなあ。
わからないけれど、ともかく、そこには「複数」の人称が登場しているということだけは、間違いない。
これが、後半、変化する。(私がかってに「後半」と読んでいるだけで、ほんとうは区別がないかもしれないのだが。)
わたしたちの声が届かない、べつのことばのささやかれる場所について。
呼び出された。隔たりを呼吸している。
葦の葉さきで、黒い帽子が動いている。
わたしたちは石切場の、赤土の崖の下を通り過ぎた。
わたしは浄水場跡の、真昼の暗がりに坐っていた。
見ていても見えないもの、目には生暖かい雨が煙るように降っていた。
ここにいて、ここを通り抜けて、
消えてもまだそこで息づいているもの。
労災病院の窓が照り返しに赤く光っている。川原に人影はない。
立つとめまいがした。
ここにはまだ来ないものの姿がある。
後半は「わたし/わたしたち」という呼称しかない。「わたしたち」は「わたし」が存在しないことにはありえない「呼称」である。「わたし」が「わたしたち」という呼称を成立させている。そのとき「わたし」以外の「わたしたち」とはだれか。きっと「おまえ/あなた/その人」だろう。前半では状況に応じて別の呼称で呼んでいたが、後半では「わたしたち」と「ひとつ」の呼称で呼んでいる。
「一体感」が強調されている。それは「かんがえつづけ」た結果なのかもしれない。考えるということは、対象と一体になること。
そう考えると、「わたしはなおもかんがえつづけなければいけない。」を中心にして、前半/後半にわかれるのかもしれない。前半を後半で、考え直している。言い直していると読むことができるかもしれない。
「そこで生まれ、そこでたえず生まれつづけているもの」は「その人がいなくなったことであらわになるもの」だろう。これは最後の方で再び「消えてもまだそこで息づいているもの」と言い直されている。
「ここにいて、ここを通り抜け」「見ていても見えないもの」という矛盾は、「たどれない道をたどっている」という矛盾と重なる。「息づいているもの」は「呼吸」。「呼吸」のなかには「息」がある。
「照り返し」ということばが一連目にあるが、前半と後半は、違いに照り返しながら何かを浮かび上がらせようとしているように思える。その浮かびあがってくる「核心」が、たぶん「呼称」の変化なのだ。「わたし/おまえ/あなた/そのひと」が「わたしたち」になる関係が、吉田が書こうとしているもののように感じられる。
「わたしたち」は「一体」であるけれど、そこには「隔たり」がほんとうは存在している。「隔たり」は、「おまえ/あなた/その人」が死んでしまうと「肉体的/物理的」には「確定的」になる。しかし、その絶対的(確定的)な「隔たり」、けっして触れることのできない切断としての「隔たり」は、逆に、考える(想像する)ときにあらゆる「物理的障害」を「無」にしてしまう。消してしまう。「隔たり」というのは「おまえ/あなり/その人」と「わたし」が存在するときに「物理的」に生まれるが、一方がいないから「物理的」制約(条件)はなくなるから、考える(想像する)とき、それはないものとして考えることができる。
この関係を「呼吸」ということばで「象徴」しているのかもしれない。「吸う」「吐く」という矛盾した動きのなかで成立する「呼吸」。
「隔たり」は「ある」、同時に「ない」。そういうことは、「おまえ/あなた/その人」がいたときも、いなくなってからも、同じようにあったり、なかったりする。
「おまえ/あなた」の「ことば」、その「意味」だけではなく、その「ことば」のなかの「呼吸」のようなもの、微妙なニュアンス。それは、「おまえ/あなた」の不在(死/姿を消す)によって、いっしょにいたときよりも鮮烈にひびいてくる。「隔たり」として、目の前にあらわれてくる。そして「隔たり」を感じれば感じるほど、逆に何かが「密着」を強くする。
以前も「隔たり」はあった、「ことば/道」のすべてをたどれたわけではないのだが、その不可能な部分を「おまえ/あなた」の存在が隠していた。独りになってみると、その「隠されていたもの」が「隔たり」として見えてくる、ということかもしれない。
「見えてくる」けれど、その「見える」は「わたしのなか」でおきていること。考える(想像する)ときの「見える」。「不在」が「見える」を可能にする。「隔たり」が「隔たり」を消す。「隔たり」は「ある」けれど「ない」。そこにある「こと」は「見える」けれど「見えない」、「見えない」けれど「見える」。
そういうことを「呼吸(吸う/吐くという矛盾)」ということばのなかで語ろうとしているのかもしれない。
そういうものを最後で、
ここにはまだ来ないものの姿がある。
言っている。「わたし」がたどりきれない何か。「まだ来ない」の「ない」は「たどれない」の「ない」である。「たどる」ことができたとき、それは「来た」にかわる。ほんとうは「来ている」、けれど「姿をあらわしていない」が「滞留」ということだろう。そういうものが「ある」と「わたし」は「かんがえつづけている」ということなのかもしれない。
何かしら、強い愛のようなものを感じさせる詩である。
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