詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

林嗣夫『林嗣夫詩集』(新・日本現代詩文庫)

2017-05-19 09:20:59 | 詩集
林嗣夫『林嗣夫詩集』(新・日本現代詩文庫)(土曜美術社出版販売、2017年04月20日発行)

 林嗣夫『林嗣夫詩集』。初期の林の作品を読んだことがなかったので、とても興味深かった。

いくつか消え残った街灯が
黄色い体液をためてふくらむ膀胱のように
とざされた闇の奥を照らす

 『むなしい仰角』(1965年)の「夜の遠足」のなかの三行。夜の街を歩いている。尿がしたくなる。尿がたまってくる。膀胱の圧力を感じる。この圧力は、何か「電気」のように肉体を刺戟する。その「電気」の感覚と、照明(電気)がつながる。あ、膀胱は肉体の奥の闇を照らしている、と思う。
 これは「誤読」かもしれない。林が書きたいと思っていることは違うかもしれない。しかし、私は、そう読んでしまう。
 そのとき、「夜の街」と「私の肉体」の区別がなくなる。夜の街を歩いているのか。私の「肉体」のなかをさまよっているのか。ああ、放尿したい、という思いが、路地のように次々に広がる。
 こういう「肉体感覚」が私は好きだ。

夜ふけの校舎の内部に
ひとりの少年が灯をともす
「汽車に乗りおくれたのです」
見知らぬ少年と水道の水を汲む
三階のはてまでどくどくとのぼってくる
燐のような水よ

 「ある残業」の一部分。職場(学校)で残業をしている。ぽつりと教室に灯がつく。行ってみると、汽車に乗り遅れた少年がひとり、ぽつりといる。その少年と水道の水を飲む。そのときの、「三階のはてまでどくどくとのぼってくる」がとても美しい。水道の水は三階まで上ってくるのか。実際は給水塔まで上り、そこから降りてくるのかもしれない。あるいは三階まで押し上げられるのかもしれない。しかし、そういう物理的「事実」はどうでもいいのだ。「客観的事実」はどうでもいいのだ。
 「主観」は「三階までのぼってくる」ととらえる。そのとき「どくどく」ということばがいっしょに動いている。この「どくどく」は鼓動の「どくどく」、つまり「血のどくどく」である。少年の「肉体」のなかで動いている「血」と水道の水が響きあっている。少年は、自分の「肉体」の中に流れる血にしたがって三階まで上ってきた。それが少年の「教室」だからだろう。三階まで上らなくても、他の教室で待つこともできる。けれど、少年はなじんでいる教室を選んだ。そして、それを林に発見された。この瞬間の、「どきどき」が重なる。「どくどく」と「どきどき」。それを静めるように、水を飲む。
 そんなことも思うのである。
 少年の肉体と学校全体が重なる。学校の建物が少年の肉体になる。「水道」と「血」が重なり、建物と肉体とをひとつにする。少年は林かもしれない。「ひとつ」のなかに、林ものみこまれていく。どっちがどっちの「譬喩」か。わからないが、このわからないという感覚の中に「主観的事実」がある。
 『教室』(1970年)のなかでは「樹」という作品が、とても気にいった。四階の教室から木を見下ろしている。

枝をもち上げ
葉という葉を原液のように震わせている樹
真上から見ていると
あの緑の光の渦に ふと飛びつき
抱きつき
手足を広げたまま
どこまでも沈んでいきたい衝動にかられる

 下から上へと上ってくる木の勢い。その勢いに逆らうように沈んで行く林。矛盾がある。衝突がある。それが上昇と沈下の運動をさらに強く感じさせる。沈みながら、上る。沈みながら、林は上へ上へと上る樹そのものになる。
 『むなしい仰角』のなかの「授業のかたみに」のなかに

わたし以前の分節されない重い沈黙に帰りたい

 という一行がある。「わたし以前の分節されない」の「分節されない」ということばが、さまざまに具体的に語られ、それが詩になっている。「原液」は「分節されないもの」の象徴だ。「未分節」と私は言っているのだが、「未分節」と「分節」を行き来するのが詩。それが「肉体」と重なって動くとき、私はとてもそのことばに惹かれる。

林嗣夫詩集 (新・日本現代詩文庫134)
クリエーター情報なし
土曜美術社出版販売
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「嵯峨信之全詩集/時刻表(1975)」を読む(3-19)

2017-05-19 08:06:22 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
「嵯峨信之全詩集/時刻表(1975)」を読む(3-19)(2017年05月19日)

37 サルビア

だが 無口な鳥たちは帰る
夕方 遠くの空を 鎖のようにつながつて

 書き出しの二行。「だが」は何に対して「だが」なのか説明されない。明らかにされない「過去」があるということだけが、明かされる。「秘密」が暗示される。読者はその「秘密」に誘い込まれながらことばを追いかける。
 「無口」は何のために無口なのか。もともと無口なのではなく、口を閉ざさなければならない理由があって無口になる。ここにも「過去」がある。「帰る」ということばにも、秘密の「過去」がある。そこまで行ったから「帰る」のである。
 一羽ではない。「鎖のようにつながつて」とあるのだから。
 しかし、私はここから「誤読」する。何羽かいるのだが、嵯峨が感じているのは「一羽」である、と。それぞれの「鳥」が同じような「過去」を持っている。「同じ過去」をもつものだけが、つらなる手をつなぐ。「連帯」である。そして、つながることで、より明確に「一羽」になる。つまり、「同じ過去」の「同じ」が深くなる。
 「夕方」が、その「深さ」を静かに感じさせる。

ぼくは小さな証(あかし)のなかで燃え尽きた

イヴ・ボンヌフオワの「サルビアの永遠の中に」とある
あるサルビアの小さな炎の中に

 イヴ・ボンヌフオワの「サルビアの永遠の中に」を知っていれば知っていていることにこしたことはない。しかし、その方が「理解」が深まるかどうか、私は疑問に感じている。知らない方がきっといい。それは「過去」なのだ。「過去の秘密」だ。「過去」というものは「秘密」を持っている、ということは誰もが知っている。そのことが重要なのだと思う。
 イヴ・ボンヌフオワの「サルビアの永遠の中に」を知ってしまうと、「過去の秘密」は「秘密」ではなくなる。そうすると「秘密」にこころがふるえるという詩の感覚が消えてしまう。
 私は、そう思っている。

38 MU山荘で

一つの<時>を他の時から分かとうと
ぼくにむかつてひたむきに顔をあげる女よ
遠くの方で
そのとき誰かが叫んでいる

 「誰か」とは「誰」か。女の中の、「あの時」の女か。あるいは、ぼくの中の「あの時」のぼくか。それとも、まったく別の人か。それはまったく別の人であっても、女であり、同時にぼくである。
 私たち「誤読」する。
 「他人」を「私」と思う。「私の感じていることと同じ」と思う。それが「誰か」という存在を気づかせるのである。



嵯峨信之全詩集
クリエーター情報なし
思潮社


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