林嗣夫『林嗣夫詩集』(新・日本現代詩文庫)(土曜美術社出版販売、2017年04月20日発行)
林嗣夫『林嗣夫詩集』。初期の林の作品を読んだことがなかったので、とても興味深かった。
『むなしい仰角』(1965年)の「夜の遠足」のなかの三行。夜の街を歩いている。尿がしたくなる。尿がたまってくる。膀胱の圧力を感じる。この圧力は、何か「電気」のように肉体を刺戟する。その「電気」の感覚と、照明(電気)がつながる。あ、膀胱は肉体の奥の闇を照らしている、と思う。
これは「誤読」かもしれない。林が書きたいと思っていることは違うかもしれない。しかし、私は、そう読んでしまう。
そのとき、「夜の街」と「私の肉体」の区別がなくなる。夜の街を歩いているのか。私の「肉体」のなかをさまよっているのか。ああ、放尿したい、という思いが、路地のように次々に広がる。
こういう「肉体感覚」が私は好きだ。
「ある残業」の一部分。職場(学校)で残業をしている。ぽつりと教室に灯がつく。行ってみると、汽車に乗り遅れた少年がひとり、ぽつりといる。その少年と水道の水を飲む。そのときの、「三階のはてまでどくどくとのぼってくる」がとても美しい。水道の水は三階まで上ってくるのか。実際は給水塔まで上り、そこから降りてくるのかもしれない。あるいは三階まで押し上げられるのかもしれない。しかし、そういう物理的「事実」はどうでもいいのだ。「客観的事実」はどうでもいいのだ。
「主観」は「三階までのぼってくる」ととらえる。そのとき「どくどく」ということばがいっしょに動いている。この「どくどく」は鼓動の「どくどく」、つまり「血のどくどく」である。少年の「肉体」のなかで動いている「血」と水道の水が響きあっている。少年は、自分の「肉体」の中に流れる血にしたがって三階まで上ってきた。それが少年の「教室」だからだろう。三階まで上らなくても、他の教室で待つこともできる。けれど、少年はなじんでいる教室を選んだ。そして、それを林に発見された。この瞬間の、「どきどき」が重なる。「どくどく」と「どきどき」。それを静めるように、水を飲む。
そんなことも思うのである。
少年の肉体と学校全体が重なる。学校の建物が少年の肉体になる。「水道」と「血」が重なり、建物と肉体とをひとつにする。少年は林かもしれない。「ひとつ」のなかに、林ものみこまれていく。どっちがどっちの「譬喩」か。わからないが、このわからないという感覚の中に「主観的事実」がある。
『教室』(1970年)のなかでは「樹」という作品が、とても気にいった。四階の教室から木を見下ろしている。
下から上へと上ってくる木の勢い。その勢いに逆らうように沈んで行く林。矛盾がある。衝突がある。それが上昇と沈下の運動をさらに強く感じさせる。沈みながら、上る。沈みながら、林は上へ上へと上る樹そのものになる。
『むなしい仰角』のなかの「授業のかたみに」のなかに
という一行がある。「わたし以前の分節されない」の「分節されない」ということばが、さまざまに具体的に語られ、それが詩になっている。「原液」は「分節されないもの」の象徴だ。「未分節」と私は言っているのだが、「未分節」と「分節」を行き来するのが詩。それが「肉体」と重なって動くとき、私はとてもそのことばに惹かれる。
林嗣夫『林嗣夫詩集』。初期の林の作品を読んだことがなかったので、とても興味深かった。
いくつか消え残った街灯が
黄色い体液をためてふくらむ膀胱のように
とざされた闇の奥を照らす
『むなしい仰角』(1965年)の「夜の遠足」のなかの三行。夜の街を歩いている。尿がしたくなる。尿がたまってくる。膀胱の圧力を感じる。この圧力は、何か「電気」のように肉体を刺戟する。その「電気」の感覚と、照明(電気)がつながる。あ、膀胱は肉体の奥の闇を照らしている、と思う。
これは「誤読」かもしれない。林が書きたいと思っていることは違うかもしれない。しかし、私は、そう読んでしまう。
そのとき、「夜の街」と「私の肉体」の区別がなくなる。夜の街を歩いているのか。私の「肉体」のなかをさまよっているのか。ああ、放尿したい、という思いが、路地のように次々に広がる。
こういう「肉体感覚」が私は好きだ。
夜ふけの校舎の内部に
ひとりの少年が灯をともす
「汽車に乗りおくれたのです」
見知らぬ少年と水道の水を汲む
三階のはてまでどくどくとのぼってくる
燐のような水よ
「ある残業」の一部分。職場(学校)で残業をしている。ぽつりと教室に灯がつく。行ってみると、汽車に乗り遅れた少年がひとり、ぽつりといる。その少年と水道の水を飲む。そのときの、「三階のはてまでどくどくとのぼってくる」がとても美しい。水道の水は三階まで上ってくるのか。実際は給水塔まで上り、そこから降りてくるのかもしれない。あるいは三階まで押し上げられるのかもしれない。しかし、そういう物理的「事実」はどうでもいいのだ。「客観的事実」はどうでもいいのだ。
「主観」は「三階までのぼってくる」ととらえる。そのとき「どくどく」ということばがいっしょに動いている。この「どくどく」は鼓動の「どくどく」、つまり「血のどくどく」である。少年の「肉体」のなかで動いている「血」と水道の水が響きあっている。少年は、自分の「肉体」の中に流れる血にしたがって三階まで上ってきた。それが少年の「教室」だからだろう。三階まで上らなくても、他の教室で待つこともできる。けれど、少年はなじんでいる教室を選んだ。そして、それを林に発見された。この瞬間の、「どきどき」が重なる。「どくどく」と「どきどき」。それを静めるように、水を飲む。
そんなことも思うのである。
少年の肉体と学校全体が重なる。学校の建物が少年の肉体になる。「水道」と「血」が重なり、建物と肉体とをひとつにする。少年は林かもしれない。「ひとつ」のなかに、林ものみこまれていく。どっちがどっちの「譬喩」か。わからないが、このわからないという感覚の中に「主観的事実」がある。
『教室』(1970年)のなかでは「樹」という作品が、とても気にいった。四階の教室から木を見下ろしている。
枝をもち上げ
葉という葉を原液のように震わせている樹
真上から見ていると
あの緑の光の渦に ふと飛びつき
抱きつき
手足を広げたまま
どこまでも沈んでいきたい衝動にかられる
下から上へと上ってくる木の勢い。その勢いに逆らうように沈んで行く林。矛盾がある。衝突がある。それが上昇と沈下の運動をさらに強く感じさせる。沈みながら、上る。沈みながら、林は上へ上へと上る樹そのものになる。
『むなしい仰角』のなかの「授業のかたみに」のなかに
わたし以前の分節されない重い沈黙に帰りたい
という一行がある。「わたし以前の分節されない」の「分節されない」ということばが、さまざまに具体的に語られ、それが詩になっている。「原液」は「分節されないもの」の象徴だ。「未分節」と私は言っているのだが、「未分節」と「分節」を行き来するのが詩。それが「肉体」と重なって動くとき、私はとてもそのことばに惹かれる。
林嗣夫詩集 (新・日本現代詩文庫134) | |
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