詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

「嵯峨信之全詩集/時刻表(1975)」を読む(3-22)

2017-05-22 14:00:14 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
「嵯峨信之全詩集/時刻表(1975)」を読む(3-22)(2017年05月22日)

43 別離

鳥が飛びさつたあと
夜の木々が鳥の重さを知るように

 失ってから知る「重さ」。鳥は女であり、木は嵯峨である。もちろん逆もある。区別はできない。区別してはならない。
 「木々」に「夜の」ということばがついている。そしてその「夜の」は「夜の孤独」にかわっていく。一人の夜。そのときに感じる孤独。「夜の」がなくても、鳥が飛び去り、鳥の重さを失ったということを知ることはできる。それだけでも悲しみは表現できるが、「夜の」があると、その悲しみに静かな「色」が重なる。
 「夜の孤独」というのは常套句だが、こういう常套句を隠していることばに、私は「ことばの肉体」を感じる。「文学」と言い換えてもいい。「文学」を生きてきたことばの力を感じる。
 書き出しの、

ふたりのあいだには親しい草を育てる短い時間もなかつた

 「花」ではなく「草」を選んでいるところにも「ことばの肉体」を感じる。「花」にしてしまうと抒情的になりすぎる。美しくなりすぎる。「草」にすることで抑制が生まれる。「草」を「親しい」ということばで、特別の存在に替えていく。
 細かな部分に詩が動いている。

44 *(死者たちの手だけしか)

 この詩から「時刻表」という「章」に入る。

死者たちの手だけしか
人間のほんとうの鋳型を造ることはできない

 人の評価は死んでから決まると言われる。詩の書き出しはこの定義を逆に言いなおしたもの。死者が生きている人間を判断する、と。
 「死者」を「歴史」と読み替えると(誤読すると)、嵯峨の言いたいことがわかる気がする。「死者」とは死んでしまった人というよりも、それまで生きてきた人である。人がどんなふうに生きてきたか、それに思いを巡らすことが、そのまま「人間の鋳型」になる。
 詩は、わかりにくいものである。わかりにくいけれど、何かを感じる。感じた何かを考えようとするとき、詩が生まれる。


嵯峨信之全詩集
クリエーター情報なし
思潮社


コメント
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