9 *(そう いつかぼくも捕えられるだろう)
そう いつかぼくも捕えられるだろう
冷えきつた円の中に
「冷えきつた円」が何を意味するかは、わからない。何かの象徴である。「冷えきつた」と向き合うことばは、最後の方に出てくる。
骨をすりあわせて小さな火をおこすことを知りながら
ついにそのことなくぼくは終つた
「火」、それも「骨」をすりあわせておこす火である。「骨」は死を連想させる。死へ向かって人間は生きている。「冷えきつた円」とは「骨(死)」のことだろう。
「知りながら」は一種の矛盾。知っているけれど、骨をすりわあせて火をおこすことはしなかった。何かのために情熱的にならなかった、ということだろうか。情熱の炎に身をこがすこともなく、「ぼくは終つた」。
これを、しかし、「ぼく」は悔いてはいない。書き出しの「そう」は肯定している。それは積極的な肯定ではないが、否定でもない。死というよりも、そういう「境地」にとらわれている、そういう「境地」のなかで詩を書いている。
10 含蝉の唄
その時 わたしは消えてしまつた一本の松明
あまりに自分自身を照らして燃えつきた松明にすぎない
「松明」は自分自身を照らすことはない。それが「自分自身を照らして燃えつきた」。こうした言い回しは青春独特のものかもしれない。「すぎない」と否定しながらも、どこかでそれを肯定している。自己陶酔のようなものがある。それを象徴的に語るのが「一本」という限定である。「わたし」だけ、「一本だけ」という思いがどこかにある。「一本」が視線を「わたし」に集中させる。
何かがあまりに遠くてわたしはそこへ到りえないのか
「何か」とは「何か」。「何か」という形で問うときにだけそこにあらわれる。もの。「何か」としか呼べないもの。
「遠く」と「到りえない」は表面的には「同じ」意味をもっているのが、ほんとうに「遠い」わけではない。「物理的/距離的」には「近い」。おそらく「わたし」の「肉体の内部」、「わたしの肉体」が、その「場」を知っている。「知っている」けれど、それは「何か」ということばにしからない。
あるいは知らぬまにそこを通りすぎてしだいに遠ざつているのか
わたしにはそれがよくわからないまま日は過ぎていつた
「到りえない」「通りすぎて」さらに「遠ざかる」。それは、みな、「同じこと」になってしまう。その「わたし」の「過ぎる」と「日は過ぎる」が重なるとき、「日/時間」そのものが「わたし」になる。「時間」が「わたし」であり、「わたし」が「時間」である。「一本」の松明の「一本」が「すぎる」という「動詞」なのかに動いている。
この「時間」と「わたし」を「ひとつ」と感じることこそ、「青春」とうものかもしれない。
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