詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

「嵯峨信之全詩集/時刻表(1975)」を読む(3-5)

2017-05-05 14:43:30 | 『嵯峨信之全詩集』を読む

9 *(そう いつかぼくも捕えられるだろう)

そう いつかぼくも捕えられるだろう
冷えきつた円の中に

 「冷えきつた円」が何を意味するかは、わからない。何かの象徴である。「冷えきつた」と向き合うことばは、最後の方に出てくる。

骨をすりあわせて小さな火をおこすことを知りながら
ついにそのことなくぼくは終つた

 「火」、それも「骨」をすりあわせておこす火である。「骨」は死を連想させる。死へ向かって人間は生きている。「冷えきつた円」とは「骨(死)」のことだろう。
 「知りながら」は一種の矛盾。知っているけれど、骨をすりわあせて火をおこすことはしなかった。何かのために情熱的にならなかった、ということだろうか。情熱の炎に身をこがすこともなく、「ぼくは終つた」。
 これを、しかし、「ぼく」は悔いてはいない。書き出しの「そう」は肯定している。それは積極的な肯定ではないが、否定でもない。死というよりも、そういう「境地」にとらわれている、そういう「境地」のなかで詩を書いている。

10 含蝉の唄

その時 わたしは消えてしまつた一本の松明
あまりに自分自身を照らして燃えつきた松明にすぎない

 「松明」は自分自身を照らすことはない。それが「自分自身を照らして燃えつきた」。こうした言い回しは青春独特のものかもしれない。「すぎない」と否定しながらも、どこかでそれを肯定している。自己陶酔のようなものがある。それを象徴的に語るのが「一本」という限定である。「わたし」だけ、「一本だけ」という思いがどこかにある。「一本」が視線を「わたし」に集中させる。

何かがあまりに遠くてわたしはそこへ到りえないのか

 「何か」とは「何か」。「何か」という形で問うときにだけそこにあらわれる。もの。「何か」としか呼べないもの。
 「遠く」と「到りえない」は表面的には「同じ」意味をもっているのが、ほんとうに「遠い」わけではない。「物理的/距離的」には「近い」。おそらく「わたし」の「肉体の内部」、「わたしの肉体」が、その「場」を知っている。「知っている」けれど、それは「何か」ということばにしからない。

あるいは知らぬまにそこを通りすぎてしだいに遠ざつているのか
わたしにはそれがよくわからないまま日は過ぎていつた

 「到りえない」「通りすぎて」さらに「遠ざかる」。それは、みな、「同じこと」になってしまう。その「わたし」の「過ぎる」と「日は過ぎる」が重なるとき、「日/時間」そのものが「わたし」になる。「時間」が「わたし」であり、「わたし」が「時間」である。「一本」の松明の「一本」が「すぎる」という「動詞」なのかに動いている。
 この「時間」と「わたし」を「ひとつ」と感じることこそ、「青春」とうものかもしれない。


嵯峨信之全詩集
クリエーター情報なし
思潮社






コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

自民党憲法改正草案を読む/番外74(情報の読み方)

2017-05-05 09:09:12 | 自民党憲法改正草案を読む
憲法改正(その3)
               自民党憲法改正草案を読む/番外74(情報の読み方)

 2017年05月05日読売新聞(西部版・14版)の4面に「憲法考」の2回目。公明党の北側一雄党副代表と民進党の細野豪志前党代表代行がインタビューに答えている。
 この「人選」はおかしくないか。
 北側は「副代表」だからまだわかるが、細野は「前」の肩書の人間。肩書で人間を判断するのわけではないが、憲法改正私案を発表後、党執行部とは考え方が異なるという理由で代表代行を辞任した人間が、あたかも党の意見を代弁する形で発言していいのか。細野は「党の意見を代弁していない」と主張するかもしれないが、新聞の見出しを見た読者は、そうは思わない。
 読売新聞が仕組んだのか、細野が売り込んだのか。
 いずれにしろ、発言内容は安倍の改憲論に沿ったものである。

 この二人のインタビューで注目したのは、やはり「緊急事態条項」である。二人ともテーマとして取り上げている。3日の安倍インタビューでは語られていない問題である。(安倍は語っていないが、読売新聞は社説で「緊急事態条項の検討を」と呼びかけている。安倍には語らせず、社説で援護している。)
 今回の二人へのインタビューでも質問している。ただし質問の仕方が直接的ではない。「緊急時の衆院議員の任期延長はどうか」と、衆院議員の任期から緊急事態の問題点を聞き出そうとしている。国民の権利の制限はわきにおかれている。国民がどんな制限を受けようが知ったことではない。議員の給料さえもらえればいい、ということだろうか。北側は「緊急事態の時こそ議会制民主主義が機能すべきだ」ともっともらしく言っているが、戦争法ひとつをみても議会制民主主義は機能していない。「多数決」が強硬におこなわれただけである。公明党はその片棒を担いでいる。
 まず、緊急事態条項がどんな内容なのか、なぜ必要なのか、問題点はどこにあるのか、それを質問しないといけないし、答えないといけない。
 国民の自由という問題では、「教育の無償化」も同じ。「無償」のかわりに、国民はどんな犠牲を強いられるのか。たとえば現在無償化の「防衛大学」。そこで医師の資格をとった卒業生は、一般の病院で働けるのか。自由に開業できるのか。就職先が限定されるのなら、他の大学でも同じことは起きないか。
 ある大学が政権批判をした場合、その大学への進学も「無償化」の対象になるのか。学問の自由、思想の自由は、どこまで保障されているか。その問題を抜きにして「家庭の事情にかかわらず進学できる社会を作る」(北側)と言っても、そんなものは嘘っぱちである。政権批判をしない人間を育てるために教育するというだけである。

詩人が読み解く自民党憲法案の大事なポイント 日本国憲法/自民党憲法改正案 全文掲載
クリエーター情報なし
ポエムピース
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする