詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

「嵯峨信之全詩集/時刻表(1975)」を読む(3-26)

2017-05-26 11:11:34 | 自民党憲法改正草案を読む
「嵯峨信之全詩集/時刻表(1975)」を読む(3-26)(2017年05月26日)

51 *(ぼくの生命は尽きるだろう)

 「ぼくの生命は尽きるだろう」という書き出しではじまり、

ぼくにとつて死のむこうの出来事のように

 という一行で終わる。その間に「火になろうとして土になつた」という連と「一瓶の葡萄酒の描写がある。「現実」が「意識」をまじえて描かれるのだが、それは「現実」ではなく「死のむこうの出来事」である。
 「尽きるだろう」という「意識」が「現実」を「現実」ではなくさせる。嵯峨はいつでも「意識」を描いている。

52 *(雷死)

雷死
現実はなによりもそこを一歩越えている

 二行の死。「雷死」ということばがあるかどうか知らない。私は嵯峨の詩ではじめて見た。「読み方」はわからない。
 雷に撃たれて死ぬ。感電死。一瞬のできごと。「現実」はその「一瞬」を「一歩越えている」。どこへ? どんなふうに?
 直前の詩の、「死のむこう」ということばが気になる。
 ひとは自分自身の「死」を体験することができない。「体験」というのは、たぶん、繰り返しのことなのだ。繰り返すことで納得する。それができないのが「死」。
 死が体験でないとしたら、では何なのか。
 「予測/予感」だろう。
 現実を見ながら、「予測/予感」する。現実は、そうやって死とつながる。つなぐことばが「詩」ということになる。まだ存在しないものを「ことば」にする。そのとき死に触れる。


嵯峨信之全詩集
クリエーター情報なし
思潮社

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加計学園文書

2017-05-26 09:59:51 | 自民党憲法改正草案を読む
加計学園文書
               自民党憲法改正草案を読む/番外77(情報の読み方)

 加計学園の獣医学部新設をめぐり、「総理の意向」などと書かれた文書が話題になっている。前川・前文部次官が「本物」と言ったたために、論理が奇妙な展開を見せている。 読売新聞(2017年05月26日朝刊・西部版・14版)の社会面に次のくだり。

(文部省)幹部は「証言が本当なら、なぜ次官のときに問題にしなかったのか」と批判。ある職員は「天下り問題で辞任に追い込まれたうっぷんを晴らしているだけのように見える」と冷やかだった。

 三面には、こういう文章もある。

政府内には前川氏の行動について、「政権への趣旨返し」(首相周辺)との見方も出ている。菅氏は25日、「自ら辞める意向を全く示さず地位にしがみついたが、世論の批判にさらされて最終的に辞めた人だ」と述べ、前川氏を痛烈に批判した。

 二つの文章の「趣旨」は同じ。辞任に追い込まれたので、前川が政権に仕返しをするために「文章は本物だ」と言ったということ。
 さて、ここからなのだが。
 私は、こう読む。

 まず、文部省の職員や、菅官房長官、首相周辺の誰かが言っていることは「正しい」という前提で考える。つまり、前川は、辞任に追い込まれた腹いせ、「トカゲの尻尾きり」の尻尾にされたことに対する「仕返し」で証言しているということを「正しい」と考える。
 問題は、そのあと。
 「仕返し」をするとき、方法には二つある。
 「嘘」をでっちあげる。菅が言おうとしているのは、「嘘説」。
 もうひとつは、それまで「秘密」にしていたことを暴露するという方法がある。仕事をしている間は、「秘密」を守る。隠し事をする。「秘密」を守ること、隠し事をすることが「仕事」だからである。出世につながるからである。
 文部省幹部は、なぜ次官のときに問題にしなかったかと言うが、次官だったから言わなかった。政権に従順に従っていれば出世すると思っていた。仕事を続けられると思っていたから言わなかった。こういうことは、どういう会社でもあるし、小さな仲間うちでもある。いやだけど、ちょっと我慢していよう。その方が人間関係がスムーズに行く。変に警戒されないですむ。誰もが少なからずやることである。怒りたいけれど、がまんして笑顔で許す。そういうことができない(そういうことをしない)人間の方が、なんというか、変ではないだろうか。
 そうやって我慢してきた人間が、辞めさせられた鬱憤ばらしに、それまで自分が我慢していたこと、自分が受け入れてきた他人の「不正(我慢できないこと)」を言いふらすということも、よくあること。
 それを認めた上で言うのだが。
 「鬱憤ばらし」に嘘をついて、どんな「得」があるだろうか。「小さな仲間うち」では「嘘つき」とか、「心が小さい」というような批判が広がるだけ。大きな社会では「偽証」という問題に発展する。名誉棄損とか、賠償責任というようなことも起きる。「鬱憤ばらし」で「嘘」を語ると、「鬱憤ばらし」をした人の被害(?)が拡大する。辞めさせられた上に、嘘つきだから辞めさせられたのだということが「法的」に確定する。「噂」ではすまなくなる。
 そんな危険を、ひとは、しない。
 前川は国会の証人喚問に応じるといっている。国会での証言が嘘だったら偽証罪に問われる。偽証罪と認定されれば完全に犯罪者である。それでは前川にとって、何の「得」にもならない。
 前川の証言が「鬱憤ばらし」、あるいは「趣旨返し」であると認めているひとは、そういう不正(文書)があったことを認めていることになる。それが「本物」であり、前川の言っていることが「正しい」から「趣旨返し」「鬱憤ばらし」と呼ぶのだ。否定的なニュアンスのある「ことば」に頼るのである。いわゆる「レッテル貼り」である。否定的なレッテルで、問題点を「修飾」し、見えにくくする。視点ずらしである。
 前川が「出会い系のバー」に出入りしていたという「風評」も「レッテル貼り」。いかがわしい人間である。だから前川の言っていることは信用できない、と言いたいらしい。でも、逆に、身分があるのにそういう店に出入りしてしまうのは、自分の欲望に正直な人間であるということもできる。正直な人間が、正直に語っているという「論理」も成り立つ。バー通いと首相の意向は関係ないだろう。
 それにしても、社会面の、

前川氏は一部メディアの取材に、「昨秋、首相官邸幹部に呼ばれ、『こういう所に出入りしているらしいじゃないか』と注意を受けた」と語っており、会見では「ご指摘をいただいたのは杉田(和博)官房副長官だ」と明らかにした。

 という部分には驚く。ふーん。文部省次官は、どういう店に出入りしているかまでチェックされるのだ。誰が調査したのかな? 次官だから調査されたのか、あらゆる公務員が調査されているのか。私は前川がバーに出入りしていたという情報よりも、それを調べた人間と、調査方法の方が気になってしようがない。
 「共謀罪」が成立してしまえば、あらゆる「密告」が正当化され、監視社会になってしまうんだろうなあ。

 脱線したが。
 笑いだしてしまうのは、三面の次の文章。

特区や規制緩和のメニューを認定する「国家戦略特区諮問会議」は、首相が議長を務めている。仮に特区認定に首相の意向が働いていたとしても「制度上は当然で、法的な問題はない」(政府関係者)。

 首相の意向が働いていたとしても「制度上は当然で、法的な問題はない」というのは、安倍の意向が働いていたということを認定するものである。働いていないなら、首相の意向は配慮されない。首相は働きかけていないですむ。「仮定」してみる必要はない。
 首相の意向が働いていたということが「認定」されたときにそなえて、「予防線」を張っている。
 名前は臥されているが「問題はない」という口ぶりは、誰かを連想させる。時に固有名詞を出し、ときに「政府関係者」と書き分けられ、発言者が「複数」いるようにみせかけられているが、言っているひとは「ひとり」ということもある。

 読売新聞は、特区と大学学部の新設について、こんなことも書いている。(三面)

今年 4月に国家戦略特区を利用して千葉県成田市に新設された国際医療福祉大学医学部の場合、成田市が2015年9月、民間の土地を22億7600万円で購入し、大学に無償貸与した。

 だから加計学園問題の土地貸与も問題ではないと言いたいらしい。しかし、親切が認められるまでの「経緯」はどうなのか。やはり安倍の意向が優先した結果、国際医療福祉大学医学部が認められたのか。他の大学の申請と競合したけれど、審査した結果国際医療福祉大学医学部になったのか。国際医療福祉大学医学の認可が、同じ経緯を辿ってなされたものならば、加計学園のことは問題にならない。しかし経緯が違っていれば、その違いが問題である。
 いま、問われているのは「結果」ではなく、「経緯」である。「経緯」が正しいなら、「結果」に対して疑問は生まれない。どんなに予算をつぎ込んでもしなければならないことがある。日本獣医師会は「獣医師は不足していない」と加計学園の獣医学部新設に反対している。
 国際医療福祉大学医学部新設の場合も、日本医師会は「医師不足解消にならない」と反対しているが、もしかすると、読売新聞の「情報」は国際医療福祉大学医学部でも首相の意向が働いたということをほのめかすもの? 「経緯」はどうだった? 私は、そんなことも考えてしまうのだった。
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