伊藤浩子「灰色の馬」(読売新聞2017年04月28日夕刊)
伊藤浩子「灰色の馬」は鮎川信夫賞受賞第一作ということになるのか。
「馬」は実在の馬というよりも、想像の馬だろう。「象徴」でもある。したがって「孕み馬」が孕んでいるのは「小馬」とは限らない。むしろ「概念」(思念)と考えた方が正確だろう。
この「概念」(思念)とは何か。
一行目の「霞」は名詞だが「霞む」と動詞にして読み直すと、「孕む」と「概念」の関係が明確になる。
「概念」(思念)というのは、「明確」なものを指して言うが、それがまだ「明確」にまで到達していない。ぼんやりしている。霞んでいる。これを「概念」(思念)を孕んでいると暗示する。
「霞む」は「はぐれる」「怯える」という具合に変化する。「問いかける」「震える」と変奏される。はっきりした形に固まらずに、どこか「はぐれた」ものを含んでいる。離れていくものを含んでいる。それは「怯え」「震えている」ようにも感じられる。「不安」である。安定していない。明確ではないから「問いかける」ことで明確にしようとしている。
「夜明けの向こう側」というのは夜明け前。まだ暗い。これも明確になる前「概念」(思念)の状態につながるし、「草を喰む」というのは「概念」(思念)を明確にするための「ことば」を収集しているということになるだろう。
どこまでもどこまでも緊密にことばが呼応しながらイメージをつくりあげていく。完璧な「象徴詩」ということになるだろう。
それはそれでいいのだが。
伊藤はほんとうに馬を見たことがあるのか。
ここに書かれている馬はどこにいるのか。
もっと簡単に問い直そう。
「孕み馬」というが、その孕み具合はどうなのだろう。臨月なのか。それとも妊娠したばかりなのか。「肉体」が見えてこない。
実際に「馬」を見て、「孕んでいる」と気がついて、そこから詩が動いているのではない。
言いなおすと、「馬」から出発して「象徴詩」になっているわけではない。「概念」(思念)でことばを動かしている内に、「馬」を「象徴」してしまった、ということ。
「馬」を書いている内に、「馬」が「孕んだ」ということ。
意地悪く言うと、「捏造」である。「馬」は「捏造された馬」である。
こういう詩は、私は苦手。
完璧な象徴詩、と先に書いたけれど、完璧なのは「情報」だけで構成されているからだ。めんどうくさいから書かないけれど「空欄」「領域」という「名詞」も「ネットワーク」が完成された世界で動いている。
だからとても「正しい」。
「捏造」だけれど、完璧に「正しい」。「間違い」を含まない。
「どこかに間違いがありますか」と問われたら、そんなものはないとしか答えようがない。既成の「正しい」と言われているものだけが、既成のネットワークで組み合わさっているのだから、そこに「間違い」が入り込む余地などない。
「知識」的にはね。
しかし詩は「正しさ」を知るためにあるのではなく、むしろ「間違える」可能性にむけて開かれたものだと思う。「間違える」ことで世界を作り替えていく。「概念」(思念)を破壊し、「概念」(思念)以前をむき出しにするものだと思う。
伊藤浩子「灰色の馬」は鮎川信夫賞受賞第一作ということになるのか。
霞(かすみ)に揺れる
夜明けの向こう側
草を喰(は)んでいる
はぐれてしまったの、と
心の中で問いかけると
ぶるり、震え
首を擡(もた)げた
そばだてる両耳は
気配にさえ怯(おび)えているから
そんなふうに過ごしたこともあった
誰も見向きもしないのに
裸にだけされていくような
空欄の日々
閑(しず)けさだけが味方する
愛もことばも差し込まない領域で
今夜も
灰色の孕(はら)み馬を視(み)ている
「馬」は実在の馬というよりも、想像の馬だろう。「象徴」でもある。したがって「孕み馬」が孕んでいるのは「小馬」とは限らない。むしろ「概念」(思念)と考えた方が正確だろう。
この「概念」(思念)とは何か。
一行目の「霞」は名詞だが「霞む」と動詞にして読み直すと、「孕む」と「概念」の関係が明確になる。
「概念」(思念)というのは、「明確」なものを指して言うが、それがまだ「明確」にまで到達していない。ぼんやりしている。霞んでいる。これを「概念」(思念)を孕んでいると暗示する。
「霞む」は「はぐれる」「怯える」という具合に変化する。「問いかける」「震える」と変奏される。はっきりした形に固まらずに、どこか「はぐれた」ものを含んでいる。離れていくものを含んでいる。それは「怯え」「震えている」ようにも感じられる。「不安」である。安定していない。明確ではないから「問いかける」ことで明確にしようとしている。
「夜明けの向こう側」というのは夜明け前。まだ暗い。これも明確になる前「概念」(思念)の状態につながるし、「草を喰む」というのは「概念」(思念)を明確にするための「ことば」を収集しているということになるだろう。
どこまでもどこまでも緊密にことばが呼応しながらイメージをつくりあげていく。完璧な「象徴詩」ということになるだろう。
それはそれでいいのだが。
伊藤はほんとうに馬を見たことがあるのか。
ここに書かれている馬はどこにいるのか。
もっと簡単に問い直そう。
「孕み馬」というが、その孕み具合はどうなのだろう。臨月なのか。それとも妊娠したばかりなのか。「肉体」が見えてこない。
実際に「馬」を見て、「孕んでいる」と気がついて、そこから詩が動いているのではない。
言いなおすと、「馬」から出発して「象徴詩」になっているわけではない。「概念」(思念)でことばを動かしている内に、「馬」を「象徴」してしまった、ということ。
「馬」を書いている内に、「馬」が「孕んだ」ということ。
意地悪く言うと、「捏造」である。「馬」は「捏造された馬」である。
こういう詩は、私は苦手。
完璧な象徴詩、と先に書いたけれど、完璧なのは「情報」だけで構成されているからだ。めんどうくさいから書かないけれど「空欄」「領域」という「名詞」も「ネットワーク」が完成された世界で動いている。
だからとても「正しい」。
「捏造」だけれど、完璧に「正しい」。「間違い」を含まない。
「どこかに間違いがありますか」と問われたら、そんなものはないとしか答えようがない。既成の「正しい」と言われているものだけが、既成のネットワークで組み合わさっているのだから、そこに「間違い」が入り込む余地などない。
「知識」的にはね。
しかし詩は「正しさ」を知るためにあるのではなく、むしろ「間違える」可能性にむけて開かれたものだと思う。「間違える」ことで世界を作り替えていく。「概念」(思念)を破壊し、「概念」(思念)以前をむき出しにするものだと思う。
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