詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

伊藤浩子「灰色の馬」

2017-05-02 09:25:10 | 詩(雑誌・同人誌)
伊藤浩子「灰色の馬」(読売新聞2017年04月28日夕刊)

 伊藤浩子「灰色の馬」は鮎川信夫賞受賞第一作ということになるのか。

霞(かすみ)に揺れる
夜明けの向こう側
草を喰(は)んでいる
 
はぐれてしまったの、と
心の中で問いかけると
ぶるり、震え
首を擡(もた)げた
 
そばだてる両耳は
気配にさえ怯(おび)えているから
 
そんなふうに過ごしたこともあった
誰も見向きもしないのに
裸にだけされていくような
空欄の日々
 
閑(しず)けさだけが味方する
愛もことばも差し込まない領域で
 
今夜も
灰色の孕(はら)み馬を視(み)ている

 「馬」は実在の馬というよりも、想像の馬だろう。「象徴」でもある。したがって「孕み馬」が孕んでいるのは「小馬」とは限らない。むしろ「概念」(思念)と考えた方が正確だろう。
 この「概念」(思念)とは何か。
 一行目の「霞」は名詞だが「霞む」と動詞にして読み直すと、「孕む」と「概念」の関係が明確になる。
 「概念」(思念)というのは、「明確」なものを指して言うが、それがまだ「明確」にまで到達していない。ぼんやりしている。霞んでいる。これを「概念」(思念)を孕んでいると暗示する。
 「霞む」は「はぐれる」「怯える」という具合に変化する。「問いかける」「震える」と変奏される。はっきりした形に固まらずに、どこか「はぐれた」ものを含んでいる。離れていくものを含んでいる。それは「怯え」「震えている」ようにも感じられる。「不安」である。安定していない。明確ではないから「問いかける」ことで明確にしようとしている。
 「夜明けの向こう側」というのは夜明け前。まだ暗い。これも明確になる前「概念」(思念)の状態につながるし、「草を喰む」というのは「概念」(思念)を明確にするための「ことば」を収集しているということになるだろう。
 どこまでもどこまでも緊密にことばが呼応しながらイメージをつくりあげていく。完璧な「象徴詩」ということになるだろう。

 それはそれでいいのだが。

 伊藤はほんとうに馬を見たことがあるのか。
 ここに書かれている馬はどこにいるのか。
 もっと簡単に問い直そう。
 「孕み馬」というが、その孕み具合はどうなのだろう。臨月なのか。それとも妊娠したばかりなのか。「肉体」が見えてこない。
 実際に「馬」を見て、「孕んでいる」と気がついて、そこから詩が動いているのではない。
 言いなおすと、「馬」から出発して「象徴詩」になっているわけではない。「概念」(思念)でことばを動かしている内に、「馬」を「象徴」してしまった、ということ。
 「馬」を書いている内に、「馬」が「孕んだ」ということ。
 意地悪く言うと、「捏造」である。「馬」は「捏造された馬」である。

 こういう詩は、私は苦手。
 完璧な象徴詩、と先に書いたけれど、完璧なのは「情報」だけで構成されているからだ。めんどうくさいから書かないけれど「空欄」「領域」という「名詞」も「ネットワーク」が完成された世界で動いている。
 だからとても「正しい」。
 「捏造」だけれど、完璧に「正しい」。「間違い」を含まない。
 「どこかに間違いがありますか」と問われたら、そんなものはないとしか答えようがない。既成の「正しい」と言われているものだけが、既成のネットワークで組み合わさっているのだから、そこに「間違い」が入り込む余地などない。
 「知識」的にはね。

 しかし詩は「正しさ」を知るためにあるのではなく、むしろ「間違える」可能性にむけて開かれたものだと思う。「間違える」ことで世界を作り替えていく。「概念」(思念)を破壊し、「概念」(思念)以前をむき出しにするものだと思う。

未知への逸脱のために
伊藤 浩子
思潮社
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「嵯峨信之全詩集/時刻表(1975)」を読む(3-2)

2017-05-02 00:00:00 | 『嵯峨信之全詩集』を読む

3 暗い旅

生きるための
暗い旅
小さなホテルの入口に立つている一本のポプラが妙に風にさわいでいる
手綱をひかれて馬がゆつくり通つてゆく
それまでが一日の午後で
あとは長い夜がつづいて記憶はない

 「それまでが」と「あとは」という対比がおもしろい。「暗い旅」の「暗い」は「記憶はない」と書かれた「長い夜」のことだろうか。
 直前の「情景」は何かの象徴か。
 謎解きをしても、どんな答えも出ないだろう。
 それよりも「一日の午後」という限定がおもしろい。この限定によって「長い夜」が「一日」だけではなく、ずっーとつづいている感じがする。



4 断章

 「死というのは/どんな階段をのぼらねばならぬのか」という書き出しではじまる。このころの嵯峨は「死」を意識している。高齢のゆえか。あるいは逆に「青春」の意識が「死」を先取りしてしまうのか。
 ことばの響き、抒情性に目を向けるならば、嵯峨のなかにある「青春」が「死」を引き寄せているように感じられる。

ひとりの男が森の中へ駆け込んでいつた
全ての時が着くのはどこの岸辺だろう
大きな終りが待つていたように梢がざわめいていた
 風が急に止む
筏は遠くへながれていつた

ここまで書くとぼくはふいに眠くなる
ぼくの名がいつか消えてしまう

 「全ての時」とは「生涯」であり、「大きな終り」とは「死」のことだろう。
 この詩にも「ここまで書くと」というおもしろいことばが出てくる。「暗い旅」の「それまで」と同じように「時間」を区切っている。
 「時間」を区切ることで、新しい「時間」を生み出しているようにもみえる。
 「ここまで/それまで」を「過去」にしてしまって、新しく「時間」をはじめる。
 だから、そこでは「眠くなった」ではなく「眠くなる」と「現在形」で「動詞」が動く。そして、この「現在形」は「未来形」でもある。ただし、その「未来形」は永遠に実現されない「未来」、つまり「永遠」のことでもあるように思える。

だれも行つたことのないところまでゆき着くと
そこでもかすかに雲雀が鳴いている

 「そこでも」鳴いているなら、「ここでも」鳴いているのだろう。「そこ」と「ここ」が「同じ」になる。その「同じ」のなかに「普遍」があり、「普遍」だから、それは「永遠」と呼ぶことができる。


嵯峨信之全詩集
クリエーター情報なし
思潮社


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