監督 ケネス・ロナーガン 出演 ケイシー・アフレック、ミシェル・ウィリアムズ、カイル・チャンドラー
海越しに海辺の街が映し出される。このファーストシーンを見た瞬間に、あっ、と叫びそうになる。「絵」になっていない。フレームができていない。構図が閉じられていない、と言っても言い。こういう作品は傑作が、駄作か、両極端に分かれる。この作品は、傑作。そう直感させるのは、その「絵」になっていない映像の「色」である。「構図」は何かただカメラを向けただけというような焦点の定まらない感じなのだが、「色」がしっかりしている。セザンヌのように強い。引き込む強さを持っている。
これは、どのシーンも同じ。排水管(パッキング?)の修理に訪れる老人の部屋、その室内風景、そこでの対話。人間のとらえ方(焦点の当て方)も閉じられていない。カメラが演技をしていない。そのかわり、そこにあるもの、そこにいる人間が演技をする。そのときの「人間の色」が出ている。
映画は人間を描いているのだから、それはあたりまえなのかもしれないが、このあたりまえが普通の映画ではなかなか実現しない。カメラ(構図)が演技をしすぎて、かってに意味をつくりだす。この映画では、そういうことがない。そこにいる人の「色」がカメラのなかに定着するまで、じっとカメラは待っている。
「無駄」が多い。
で、この「無駄が多い」ということを「カメラ」ではなく、ストーリーに置き換えると、こうなる。
最初に主人公のボストンでの仕事が描かれる。アパートの便利屋をやっている。いくつものシーンがある。これって、ストーリーと関係ないでしょ? 仕事を説明するにしても、こんなにたくさんはいらない。なぜ、多く描くのか。複数の仕事現場を描くことで、ケイシー・アフレックの「色」がしっかりしてくる。もちろん一シーンでも「色」を出すことはできるが、この映画は積み重ね(塗り重ね)で「色」を強固なものにしている。
「現在」に「過去」がフラッシュバックのように入り込んでくる。このときの「過去」の描き方が、また、とてもおもしろい。「過去」であることを強調しない。「過去」は遠いところにあるのではなく、「いま」のすぐとなりにある。10年前のことも「思い出す」ときは1秒前よりもっと「身近」なのである。ぴったりと「塗り重なった色」として「過去」が出てくる。これが、そのまま「いまの色」になる。
こういうことは「小説」では非常に多い。「ことば」をつかった表現では、どうしても「過去/いま」が重なるのだが、映画のように「絵」ではなかなか重ならない。映し出される「情報」のなかにすでに「時間」があって、それが「重なり」を拒否してしまう。この映画では、そういうことが起きない。「時差」を「人間の色」が消してしまう。
「海の色」さえ、普通は「時差(過去といまの違い)」があるのだが、この映画では、それがない。「いま」なのに「過去」がそのまま生きて「色」となってあらわれている。
で、これが、映画のテーマそのものにも、深くかかわってくる。
主人公には忘れられない悲しみがある。乗り越えられない絶望がある。それは、いつでも「いま」となって噴出してくる。「過去」なのに、「過去」にならない。時間が流れ去るということがない。時は悲しみや絶望を解決しない。
それでも生きていかなければならない。ときには「助け合う」ということも必要になる。これは、苦しい。「色」がぶつかりあい、「色」が濁るのだ。それぞれの人間が持っている「色」がまざり、そこから美しいハーモニーがあらわれるというのが普通の映画(ハッピーエンドの映画)なのだが、主人公は「色が混ざる」ことを受け入れることができない。自分のなかに、もうすでに深く深く混ざり込んでしまった「世界で唯一の色」があるからだ。
これは、すごいなあ。
映画の終わりの方に、主人公と甥が、ワンバウンドさせながらキャッチボール(?)をするシーンがあるが、その「ワンバウンド」の距離の取り方が、主人公には絶対必要なのだ。直接ふれあわない。断絶をおく。そうすることで「自分の色」を背負い続ける。
今年のベスト1だな。
私はKBCシネマ(1スクリーン)で見たのだが、いつもは不鮮明な映像と色に目が疲れ、頭が痛くなるのだが、今回は「色」が自然に目に入ってきた。それだけ「色」が強かったということなのだろう。(もしかすると映写器機がかわったのかもしれないが。)
(KBCシネマ1、2017年05月31日)
*
「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
https://www.facebook.com/groups/1512173462358822/
海越しに海辺の街が映し出される。このファーストシーンを見た瞬間に、あっ、と叫びそうになる。「絵」になっていない。フレームができていない。構図が閉じられていない、と言っても言い。こういう作品は傑作が、駄作か、両極端に分かれる。この作品は、傑作。そう直感させるのは、その「絵」になっていない映像の「色」である。「構図」は何かただカメラを向けただけというような焦点の定まらない感じなのだが、「色」がしっかりしている。セザンヌのように強い。引き込む強さを持っている。
これは、どのシーンも同じ。排水管(パッキング?)の修理に訪れる老人の部屋、その室内風景、そこでの対話。人間のとらえ方(焦点の当て方)も閉じられていない。カメラが演技をしていない。そのかわり、そこにあるもの、そこにいる人間が演技をする。そのときの「人間の色」が出ている。
映画は人間を描いているのだから、それはあたりまえなのかもしれないが、このあたりまえが普通の映画ではなかなか実現しない。カメラ(構図)が演技をしすぎて、かってに意味をつくりだす。この映画では、そういうことがない。そこにいる人の「色」がカメラのなかに定着するまで、じっとカメラは待っている。
「無駄」が多い。
で、この「無駄が多い」ということを「カメラ」ではなく、ストーリーに置き換えると、こうなる。
最初に主人公のボストンでの仕事が描かれる。アパートの便利屋をやっている。いくつものシーンがある。これって、ストーリーと関係ないでしょ? 仕事を説明するにしても、こんなにたくさんはいらない。なぜ、多く描くのか。複数の仕事現場を描くことで、ケイシー・アフレックの「色」がしっかりしてくる。もちろん一シーンでも「色」を出すことはできるが、この映画は積み重ね(塗り重ね)で「色」を強固なものにしている。
「現在」に「過去」がフラッシュバックのように入り込んでくる。このときの「過去」の描き方が、また、とてもおもしろい。「過去」であることを強調しない。「過去」は遠いところにあるのではなく、「いま」のすぐとなりにある。10年前のことも「思い出す」ときは1秒前よりもっと「身近」なのである。ぴったりと「塗り重なった色」として「過去」が出てくる。これが、そのまま「いまの色」になる。
こういうことは「小説」では非常に多い。「ことば」をつかった表現では、どうしても「過去/いま」が重なるのだが、映画のように「絵」ではなかなか重ならない。映し出される「情報」のなかにすでに「時間」があって、それが「重なり」を拒否してしまう。この映画では、そういうことが起きない。「時差」を「人間の色」が消してしまう。
「海の色」さえ、普通は「時差(過去といまの違い)」があるのだが、この映画では、それがない。「いま」なのに「過去」がそのまま生きて「色」となってあらわれている。
で、これが、映画のテーマそのものにも、深くかかわってくる。
主人公には忘れられない悲しみがある。乗り越えられない絶望がある。それは、いつでも「いま」となって噴出してくる。「過去」なのに、「過去」にならない。時間が流れ去るということがない。時は悲しみや絶望を解決しない。
それでも生きていかなければならない。ときには「助け合う」ということも必要になる。これは、苦しい。「色」がぶつかりあい、「色」が濁るのだ。それぞれの人間が持っている「色」がまざり、そこから美しいハーモニーがあらわれるというのが普通の映画(ハッピーエンドの映画)なのだが、主人公は「色が混ざる」ことを受け入れることができない。自分のなかに、もうすでに深く深く混ざり込んでしまった「世界で唯一の色」があるからだ。
これは、すごいなあ。
映画の終わりの方に、主人公と甥が、ワンバウンドさせながらキャッチボール(?)をするシーンがあるが、その「ワンバウンド」の距離の取り方が、主人公には絶対必要なのだ。直接ふれあわない。断絶をおく。そうすることで「自分の色」を背負い続ける。
今年のベスト1だな。
私はKBCシネマ(1スクリーン)で見たのだが、いつもは不鮮明な映像と色に目が疲れ、頭が痛くなるのだが、今回は「色」が自然に目に入ってきた。それだけ「色」が強かったということなのだろう。(もしかすると映写器機がかわったのかもしれないが。)
(KBCシネマ1、2017年05月31日)
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「映画館に行こう」にご参加下さい。
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