詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ケネス・ロナーガン監督「マンチェスター・バイ・ザ・シー」(★★★★★)

2017-05-31 21:00:56 | 映画
監督 ケネス・ロナーガン 出演 ケイシー・アフレック、ミシェル・ウィリアムズ、カイル・チャンドラー

 海越しに海辺の街が映し出される。このファーストシーンを見た瞬間に、あっ、と叫びそうになる。「絵」になっていない。フレームができていない。構図が閉じられていない、と言っても言い。こういう作品は傑作が、駄作か、両極端に分かれる。この作品は、傑作。そう直感させるのは、その「絵」になっていない映像の「色」である。「構図」は何かただカメラを向けただけというような焦点の定まらない感じなのだが、「色」がしっかりしている。セザンヌのように強い。引き込む強さを持っている。
 これは、どのシーンも同じ。排水管(パッキング?)の修理に訪れる老人の部屋、その室内風景、そこでの対話。人間のとらえ方(焦点の当て方)も閉じられていない。カメラが演技をしていない。そのかわり、そこにあるもの、そこにいる人間が演技をする。そのときの「人間の色」が出ている。
 映画は人間を描いているのだから、それはあたりまえなのかもしれないが、このあたりまえが普通の映画ではなかなか実現しない。カメラ(構図)が演技をしすぎて、かってに意味をつくりだす。この映画では、そういうことがない。そこにいる人の「色」がカメラのなかに定着するまで、じっとカメラは待っている。
 「無駄」が多い。
 で、この「無駄が多い」ということを「カメラ」ではなく、ストーリーに置き換えると、こうなる。
 最初に主人公のボストンでの仕事が描かれる。アパートの便利屋をやっている。いくつものシーンがある。これって、ストーリーと関係ないでしょ? 仕事を説明するにしても、こんなにたくさんはいらない。なぜ、多く描くのか。複数の仕事現場を描くことで、ケイシー・アフレックの「色」がしっかりしてくる。もちろん一シーンでも「色」を出すことはできるが、この映画は積み重ね(塗り重ね)で「色」を強固なものにしている。
 「現在」に「過去」がフラッシュバックのように入り込んでくる。このときの「過去」の描き方が、また、とてもおもしろい。「過去」であることを強調しない。「過去」は遠いところにあるのではなく、「いま」のすぐとなりにある。10年前のことも「思い出す」ときは1秒前よりもっと「身近」なのである。ぴったりと「塗り重なった色」として「過去」が出てくる。これが、そのまま「いまの色」になる。
 こういうことは「小説」では非常に多い。「ことば」をつかった表現では、どうしても「過去/いま」が重なるのだが、映画のように「絵」ではなかなか重ならない。映し出される「情報」のなかにすでに「時間」があって、それが「重なり」を拒否してしまう。この映画では、そういうことが起きない。「時差」を「人間の色」が消してしまう。
 「海の色」さえ、普通は「時差(過去といまの違い)」があるのだが、この映画では、それがない。「いま」なのに「過去」がそのまま生きて「色」となってあらわれている。
 で、これが、映画のテーマそのものにも、深くかかわってくる。
 主人公には忘れられない悲しみがある。乗り越えられない絶望がある。それは、いつでも「いま」となって噴出してくる。「過去」なのに、「過去」にならない。時間が流れ去るということがない。時は悲しみや絶望を解決しない。
 それでも生きていかなければならない。ときには「助け合う」ということも必要になる。これは、苦しい。「色」がぶつかりあい、「色」が濁るのだ。それぞれの人間が持っている「色」がまざり、そこから美しいハーモニーがあらわれるというのが普通の映画(ハッピーエンドの映画)なのだが、主人公は「色が混ざる」ことを受け入れることができない。自分のなかに、もうすでに深く深く混ざり込んでしまった「世界で唯一の色」があるからだ。
 これは、すごいなあ。
 映画の終わりの方に、主人公と甥が、ワンバウンドさせながらキャッチボール(?)をするシーンがあるが、その「ワンバウンド」の距離の取り方が、主人公には絶対必要なのだ。直接ふれあわない。断絶をおく。そうすることで「自分の色」を背負い続ける。
 今年のベスト1だな。

 私はKBCシネマ(1スクリーン)で見たのだが、いつもは不鮮明な映像と色に目が疲れ、頭が痛くなるのだが、今回は「色」が自然に目に入ってきた。それだけ「色」が強かったということなのだろう。(もしかすると映写器機がかわったのかもしれないが。)
                     (KBCシネマ1、2017年05月31日)

 *

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「嵯峨信之全詩集/時刻表(1975)」を読む(3-31)

2017-05-31 14:26:50 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
「嵯峨信之全詩集/時刻表(1975)」を読む(3-31)(2017年05月31日)

61 *(夜通し歩いていたらしい)

そしていつのまにか夢のなかを通りすぎて
しらじらと明けそむる川岸に出ていた

 「夢のなかを通りすぎて」という想像力には類型があるかもしれない。違和感を持たずに読むことができる。このことばの運動は、連を変えて、こうつづく。

まぎれもなくその日からだつた
ぼくの影がいつも蛇踊りのように揺れだしたのは

 「蛇踊りのように揺れる」へたどりつくまえに「まぎれもなく」がある。「まぎれもなく」は「……である」という「断定」を導く。論理のことばだ。論理を経由することで、嵯峨は「想像力」(空想)を支える。
 「想像力」のひろがり(自在さ)よりも、私はこのことに嵯峨野ことばの特徴を感じる。

62 蛇踊

言葉を忘れた未明
蛇踊りを見た

 「言葉を忘れた」ことと「蛇踊りを見た」ことの間には、強い関係がある。「言葉を忘れた」から、「蛇踊りを見ることができた」。偶然ではない。それが「必然」であることを、嵯峨はこんなふうに「論理化」する。

曙光のなかにゆれ動く経文字を
まだぼくには解く力がない

 文字を解く力とは「読み解く力」である。「読む」を補う必要がある。「読み解く」とき「文字」は「言葉」になる。ことばがまだことばにならないとき、ことばでは表現できないもの、「蛇踊り」が見える。
 そしてこの「力」ということばが一連目を逆照射する。私は「蛇踊りを見た」を「蛇踊りを見ることができた」と「誤読」したのだが、その「誤読」のときの「できた(できる)」が「力」である。
 読み解く力がないとき、見る力がある。「見る」が先行し、遅れて「解く」がやってくる。「見る」を「論理的」に「解く」と、そこからことばが生まれる。これが嵯峨の「権語学」(文法)の基本だろう。




嵯峨信之全詩集
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