詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

しばらく留守にします。

2017-05-06 09:43:25 | その他(音楽、小説etc)


この絵を見に行ってきます。
東京でピカソ展があったとき、図録の表紙になっていたのに見ることができなかった1枚。

わくわく、どきどき。
初恋の人に会いにゆく気持ち。



留守中も「嵯峨信之を読む」は更新する予定です。
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自民党憲法改正草案を読む/番外75(情報の読み方)

2017-05-06 09:41:11 | 自民党憲法改正草案を読む
憲法改正(その4)
               自民党憲法改正草案を読む/番外75(情報の読み方)

 2017年05月06日読売新聞(西部版・14版)の1面に、驚くべき記事が載っている。見出しは、

朝鮮半島有事/退避邦人 米軍が陸送/政府検討 釜山から海自艦

 朝鮮半島に有事が発生したとき、退避邦人を米軍が陸送し(陸上部分は米軍が運び)、釜山からは海上自衛隊の艦船で運ぶ(救出する)ということを政府が検討している、というのだが。
 政府が検討すれば、それで実現するのか。
 米軍は了承しているのか。これから了解を取るのか。記事には「5万人以上の在韓邦人」という記述はあるが、在韓米人(および米国に密接な外国人)は何人いるのか。日本人を優先して救出してくれるという「確約」はあるのか。
 これが記事を読んでまっさきに浮かぶ疑問だが、少し頭を冷やして読むと、もっとおそろしいことがわかる。
 陸上部分の救出を米軍に頼らないといけないのは日韓の信頼関係がないからだ。自衛隊が韓国に上陸して邦人救出作戦をしようにも、韓国側が自衛隊を受け入れないと想定されるということだ。
 記事の最後の部分には、こういう文章がある。

 釜山を拠点として海自艦を活用する退避は、韓国政府や自治体の同意が前提条件となるが、韓国側は同国内での自衛隊による活動には否定的で調整は進んでいない。このため、韓国が同意しない場合を想定し、海自艦が可能な範囲で釜山に接近し、ヘリや小型船が海自艦との間を往復することも検討している。

 自衛隊の上陸はおろか、海自艦の接岸さえも「同意」されそうにないのである。こんなことで邦人を救出できるわけがない。ひとり、ふたりではない。5万人である。
 それなのに、安倍は北朝鮮との戦争をあおっている。「有事発生」をまくしたてている。邦人の安全などどうでもいい。ただ戦争がしたいだけなのである。
 北朝鮮での「有事」を想定するなら、まず日韓の関係を安定させること、信頼関係を築くことが重要だろう。完全な退避ルートを確保したとしても、戦争になればそれが機能するかどうかわからない。退避ルートが政府の勝手な「空想」のままでは、そんなものは機能するはずがない。
 実現するはずのないことを「検討」し、あたかも邦人の安全を考えているふりをしているだけにすぎない。危機が迫っているというのなら、まず、危機が発生したときに一番重要な日韓関係を調整すべきだろう。そのために、政府が何を検討しているか。そのニュースこそ必要なものだ。単に、「政府検討」という記事を書くのではなく、その「検討」に問題点がないかを分析する記事が必要だ。

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「嵯峨信之全詩集/時刻表(1975)」を読む(3-6)

2017-05-06 00:00:00 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
「嵯峨信之全詩集/時刻表(1975)」を読む(3-6)

11 *(太陽はどの通りの家並も照らそうとしない)

太陽はどの通りの家並も照らそうとしない
一つの死が終わらねば
その死の理由が充分わからねば

 二行目の「終わる」が「理由が充分にわかる」と言い換えられている。何かが終わるということは「理由」が「わかる」こと。
 そうであるなら、このことばを書いている嵯峨は「理由のわからない」何事かに向き合っているということなのだろう。
 「死」は問題ではない。「死」は命の「おわり」。「おわり」が「終わる」ということは、同義反復であり、意味がない。ここに書かれている「死」は何かの象徴である。「終わる」ということがどういうことかを語るための「意味のない象徴」。
 「死」ということばによりかかっている。「意味がない」にもかかわらず「死」と書くと、そこに「意味」が出てきてしまう。そこに「青春」の匂いを感じる。

12 *(愛情 沙洲の上に落ちるやわらかな陽ざし)

この首枷(くびかけ)をはずすために
背ろむきになって
ぼくは急いで書く
自分の知らぬことのはてを

 「この首枷」とは書き出しの一行にある「愛情」をあらわしているように感じられる。ただ、そこに深い意味があるかどうか、よくわからない。
 最終行の「自分の知らぬこと」というのは、ここに書かれている「愛情」かもしれない。「知らない」だからこそ「首枷」という「比喩/象徴」で語ってしまう。ただ「知らない」といっても、少しは「知っている」。「充分に知らない」こと、と言い直すと、(太陽は……)で見てきた「その死の理由が充分にわからねば」と重なるものがある。
 「死」も「愛情」も、ひとは生きているかぎり見聞きする。体験する。けれど、それを「充分にわかる」ということは、ない。そして,「わからない」からこそ、詩人は、その「わからない」へ向けで自分のことばを動かす。
 「知らぬことのはて」は「果て」を超えた「先」である。その「向こう」である。

嵯峨信之全詩集
クリエーター情報なし
思潮社



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