「嵯峨信之全詩集/時刻表(1975)」を読む(3-10)
19 絨毯
「外に溢れ出るもの」とは「大きなもの」だろう。「掌ほどの小さな」ということばと向き合っている。「外に溢れ出るもの」は「掌ほどの小さな宇宙」からも溢れ出ていく。
この「溢れ出る」と「たち去る」は同じことを語っている。「溢れ出る」ものにしたがってぼくは「たち去る」。
求められる以上に愛するのではなく、愛するということは求められるものを配慮せずに愛してしまうことである。
ここまでは「論理的」に読むことができる。
しかし、後半がわからない。
「絨毯」とは何だろう。何の比喩だろう。絨毯は「なめし革」でできているのだろうか。
20 *(おまえはどんな遠くよりも遠く)
「おまえ」とはだれなのか。「人称」で呼ばれているが「人間」ではないように感じられる。
「遠く」と「近く」、「死」と「生」が対比される。このときまず「遠く」「死」が想起され、そのあとで「近く」と「生」ということばがつかわれている。「遠く」から「近く」へ、「死」から「生」へと動いている感じがする。
「近く」「生」そのものをみつめようとしている。「近くよりさらに近く」の「さらに」が、そういうことを語っている。「また生の真ん中だ」という行には「さらに」を補って「また生の真ん中よりさらに真ん中だ」と読み直すことができると思う。
「おまえ」とは「ぼく」自身の「内部/核心」、「ほくの核心よりもさらに核心のぼく」のことだろう。
「ぼくの核心(血)の核心(血)」は「樹」のように立っている。ここにも「さらに」を補って読むことができるだろう。
「さからって」は「さらに」を言い換えたものである。風にさからって「さらに」強く立っている。
19 絨毯
ぼくは外に溢れ出るものを持ちながら
もはやここからたち去つていかねばならぬ
ふたりの間にあるのは掌ほどの小さな宇宙だつたが
そこでぼくは愛することの難しさを教えられたようだ
「外に溢れ出るもの」とは「大きなもの」だろう。「掌ほどの小さな」ということばと向き合っている。「外に溢れ出るもの」は「掌ほどの小さな宇宙」からも溢れ出ていく。
この「溢れ出る」と「たち去る」は同じことを語っている。「溢れ出る」ものにしたがってぼくは「たち去る」。
求められる以上に愛するのではなく、愛するということは求められるものを配慮せずに愛してしまうことである。
ここまでは「論理的」に読むことができる。
しかし、後半がわからない。
そのとき太陽はぼくをどこからか射しはじめたか
ぼくはその場処について考えている
それはよく飼いならされよく鞣されていた
今日ぼくにの残されたのはこの唯一の絨毯だけである
「絨毯」とは何だろう。何の比喩だろう。絨毯は「なめし革」でできているのだろうか。
20 *(おまえはどんな遠くよりも遠く)
おまえはどんな遠くよりも遠く
どんな近いところよりもさらに近い
そこは死の直下で
また生の真ん中だ
「おまえ」とはだれなのか。「人称」で呼ばれているが「人間」ではないように感じられる。
「遠く」と「近く」、「死」と「生」が対比される。このときまず「遠く」「死」が想起され、そのあとで「近く」と「生」ということばがつかわれている。「遠く」から「近く」へ、「死」から「生」へと動いている感じがする。
「近く」「生」そのものをみつめようとしている。「近くよりさらに近く」の「さらに」が、そういうことを語っている。「また生の真ん中だ」という行には「さらに」を補って「また生の真ん中よりさらに真ん中だ」と読み直すことができると思う。
「おまえ」とは「ぼく」自身の「内部/核心」、「ほくの核心よりもさらに核心のぼく」のことだろう。
おまえは失つた日の坂に立つてぼくを呼ぶ
そしてどこかにある血の樹よりも
真赤な夕日をあびて烈しく風にさからつて立つている
「ぼくの核心(血)の核心(血)」は「樹」のように立っている。ここにも「さらに」を補って読むことができるだろう。
そしてどこかにある血の樹よりも
「さらに」真赤な夕日をあびて烈しく風にさからつて立つている
「さからって」は「さらに」を言い換えたものである。風にさからって「さらに」強く立っている。
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