「嵯峨信之全詩集/時刻表(1975)」を読む(3-30)(2017年05月30日)
59 *(詩は肉体のなかでは死なぬ)
「言(こと)の葉(は)のまにまに」という「章」がついている。
この一行は、瞬間的に納得するが、読み返すとわからなくなる。「死は死なぬ」という表現は矛盾している。
肉体の死は、本当の死ではない、ということだろう。これを「死は」という主語で始めると、述語が奇妙にねじれる。ねじれるのだけれど、そのねじれのなかで、何か奇妙なものがみえる。だから瞬間的に納得する。つまり、自分がうすうす感じていること、言いたいけれどことばにできないことが、いまことばとして動いているのだと直感する。そして、「わかる」「納得する」ということが起きるのだろう。
この一行は、こう言いなおされる。
思考のなかで、死は認識される、ということか。
「思考」は「言葉」といいなおされる。
これはしかし、ことばのなかに人間の死があるという「定義」にはならない。ここでも、奇妙にずれる。人は死んでも、その人は「ことば」のなかに生きている、という具合に。
そうは書いていないのだが、そう「誤読」してしまう。詩のことばは「誤読」を誘うことばなのだ。「誤読」しながら、人は自分の思いたいことを思う。
* 60(血がうけつがれて流れるのを)
書き出しの一行は、こうひきつがれる。
血が人から人へ引き継がれていくように、ことばもひとからひとへと引き継がれていく。その「ひきつぎ」のなかで、捨てられたことばがときどき蘇る。詩になって。「ことばのひきつぎ」を「血」というの「肉体」でとらえ直している。
59 *(詩は肉体のなかでは死なぬ)
「言(こと)の葉(は)のまにまに」という「章」がついている。
死は肉体のなかでは死なぬ
この一行は、瞬間的に納得するが、読み返すとわからなくなる。「死は死なぬ」という表現は矛盾している。
肉体の死は、本当の死ではない、ということだろう。これを「死は」という主語で始めると、述語が奇妙にねじれる。ねじれるのだけれど、そのねじれのなかで、何か奇妙なものがみえる。だから瞬間的に納得する。つまり、自分がうすうす感じていること、言いたいけれどことばにできないことが、いまことばとして動いているのだと直感する。そして、「わかる」「納得する」ということが起きるのだろう。
この一行は、こう言いなおされる。
思考のなかをほんとうの死はやつてくる
思考のなかで、死は認識される、ということか。
そして人間の墓は言葉のなかに在る
「思考」は「言葉」といいなおされる。
これはしかし、ことばのなかに人間の死があるという「定義」にはならない。ここでも、奇妙にずれる。人は死んでも、その人は「ことば」のなかに生きている、という具合に。
そうは書いていないのだが、そう「誤読」してしまう。詩のことばは「誤読」を誘うことばなのだ。「誤読」しながら、人は自分の思いたいことを思う。
* 60(血がうけつがれて流れるのを)
書き出しの一行は、こうひきつがれる。
誰もみることはできない
野に捨てられた言葉がその血でひそかに育つ
そして時としてその言葉が詩になる
血が人から人へ引き継がれていくように、ことばもひとからひとへと引き継がれていく。その「ひきつぎ」のなかで、捨てられたことばがときどき蘇る。詩になって。「ことばのひきつぎ」を「血」というの「肉体」でとらえ直している。
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