詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

「嵯峨信之全詩集/時刻表(1975)」を読む(3-7)

2017-05-07 00:00:00 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
「嵯峨信之全詩集/時刻表(1975)」を読む(3-7)(2017年05月07日)

13 *(干あがつた死語の間を)

干あがつた死語の間を
ひとすじの水が流れはじめる

 この書き出しは、あまりにも抽象的である。
 「死語」が何を指すかわからない。「死語」をわざわざ「干がつた」と修飾している。力点は「死後」よりも「干あがる」という「動詞」の方にある。この「動詞」に「水が流れる」が向き合う。そうすると、そこに「風景/情景」が浮かんでくる。

その小さな岸で

 「岸」が見えてくる。そのとき、もうそこには「死語」はない。つまり「死語」が
具体的に何を指しているかは、完全に忘れられてしまう。
 この先を動かしていくのは、やはり「動詞」である。

名も死もけつしてぼくたちには追いつけない
とはいうものの--日々
ほこらしげに話ができるような豊かなものでは
 なかつた
が その少し先きの方で意味が少しずつ期待に
 変りつつあつた

 「追いつけない」は(太陽は……)(愛情)で読んできた「充分にわからぬ」や「知らぬことのはて」を想像させる。その「わからぬ」「知らぬ」は、ここでは「意味」ということばで語られ、それは「少しずつ期待に 変りつつあつた」と結ばれる。
 「意味が少しずつ期待に 変りつつあつた」の「名詞」にとらわれると、詩はむずかしくなる。
 この行では「変わる」という動詞が重要なのだと思う。
 たどりつけない。けれど、そこへ向かう動きが、わからないながらも、何かをそこに浮かび上がらせる。わからないものをそこに見てしまう。そういうことを「期待」というのだろう。

 ことばを「論理」ではなく、そこで動いていぼんやりしたものの、その「動き」そのもとしてつかむとき、そこに詩が見えてくるのかもしれない。

14 小さな岸

 「小さな岸」からは「小さな岸」という章。直前の詩に登場する「小さな岸」を引き継いでいるのだろう。

愛するとは
遠いとどこかで言葉がめざめることではないか
物の形にその名がやさしく帰つてくることではないか

 「言葉がめざめ」物の方へ「帰つてくる」。「名」になる。「名」とは「愛情」のことである。
 この「言葉のめざめ」は自然に起きることではない。これまで読んできた詩につないで考えるなら、わからない何か、その先まで行こうとする動きが、「はて」を超えたところにあることとばを刺戟し、めざめさせるのだ。
 嵯峨のことばが、まだことばになっていないこと(もの)を書こうとする。そうすると、向こうからことばが嵯峨の方へ「帰つてくる」。嵯峨とことばは、その間にある「もの」のところで「名」を発見する形で出会うのだ。
 それが詩。

嵯峨信之全詩集
クリエーター情報なし
思潮社


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