「嵯峨信之全詩集/時刻表(1975)」を読む(3-9)
17 問いと答え
詩の二連目の四行だが、なんとも意味がとりにくい。
書き出しの二行は「想像力」で小屋を燃やしているのだろう。「もし火をつけたら、すぐに燃えつきてしまうだろう」と暴力的な想像をしている。そういう想像は、あるいみでは青春の特権だ。
わかりにくいのは後半。わかりにくいけれど、「ただそこへいく」の「ただ」が印象に残る。「ただ」は前の作品で見た「どうしても」に似ているかもしれない。「ただ」は「無目的」、「どうしても」は「明確な目的」を浮かび上がらせるかもしれない「どうしても」そこへいくのではなく、無目的に「ただ」そこへゆく。
そういうとき「頂」ではなく、「いく路の傾斜だけ」が「はっきり見えてくる」。「頂」か「未来/これからいくところ」なのに対し、「傾斜」は「いま」そのものだろう。その「いま」がはっきり見える。
「タイトル」に結びつけて読むと「答え」は「頂/未来」であり、「問い」は「いま」ということになるか。何かを「問う(問い)」とき、「いま」が「はっきり」見えてくるということなのだろう。
18 不在の日
この「来る」は「どこから」来るのか。「未来から」である。「未来」ということばが思い浮かぶのは、書き出しに「日」ということばがあるからだ。「日」のなかに「時間」があり、それが「未来」ということばを呼び覚ます。
この「来る」は「去る」と言い直すことができる。ただし、そのときは「ふたたび」は無効になる。「ふたたび」が「意味」を持ちうるのは、「去った日」が「もどる」というときである。
「日は流れ去って、ふたたびもどることがない」
そうであるなら、この詩のキーワードは「ふたたび」である。「キーワード」であるから、それはほかのところでは省略されている。大事なことば(作者にとっての思想)は、しばしば無意識なものである。意識する必要がないから、書き忘れてしまうのである。それくらい作者の肉体にしみついている。「ふたたび」を別な行に補ってみるとそのことがよくわかる。
過ぎ去ったものを「ふたたび」いま/ここに呼び「戻す」ことが詩なのである。
そしてこのことは、まったく逆な形で言い直すことができる。過ぎ去っていったものを「ふたたび」とり「戻す」のではなく、先取りしてしまうのも詩なのである。
「過去」を「ふたたび」とり戻すよりも、「未来/まだ存在しない時間」を、あたかも「過去」に体験したことがあるかのように「思い出す」のが詩である。
この、私の説明は「矛盾」しているが、矛盾しているから、それが詩なのだとしか、私にはいえない。
その「矛盾」を嵯峨は次のように書いている。
死はだれにとっても「未来」であり、それは存在していない。この存在していないもの(不在)を先取りするものこそが詩である。
この「不在」は「すでに存在したもの/既在」によって、「予兆」のようにして書いたものが詩。死のなかに「不在」がやってくる。しかも、それは「ふたたび」なのである。
17 問いと答え
小さな空き地にできた可憐な小屋が
ふたりのあいだのこころない火で燃えつきてしまう
そして頂は頂として
ただそこへいく道の傾斜だけがはつきり見えてくる
詩の二連目の四行だが、なんとも意味がとりにくい。
書き出しの二行は「想像力」で小屋を燃やしているのだろう。「もし火をつけたら、すぐに燃えつきてしまうだろう」と暴力的な想像をしている。そういう想像は、あるいみでは青春の特権だ。
わかりにくいのは後半。わかりにくいけれど、「ただそこへいく」の「ただ」が印象に残る。「ただ」は前の作品で見た「どうしても」に似ているかもしれない。「ただ」は「無目的」、「どうしても」は「明確な目的」を浮かび上がらせるかもしれない「どうしても」そこへいくのではなく、無目的に「ただ」そこへゆく。
そういうとき「頂」ではなく、「いく路の傾斜だけ」が「はっきり見えてくる」。「頂」か「未来/これからいくところ」なのに対し、「傾斜」は「いま」そのものだろう。その「いま」がはっきり見える。
「タイトル」に結びつけて読むと「答え」は「頂/未来」であり、「問い」は「いま」ということになるか。何かを「問う(問い)」とき、「いま」が「はっきり」見えてくるということなのだろう。
18 不在の日
日はふたたび来ることがない
だが 詩のなかにはやつてくる
この「来る」は「どこから」来るのか。「未来から」である。「未来」ということばが思い浮かぶのは、書き出しに「日」ということばがあるからだ。「日」のなかに「時間」があり、それが「未来」ということばを呼び覚ます。
この「来る」は「去る」と言い直すことができる。ただし、そのときは「ふたたび」は無効になる。「ふたたび」が「意味」を持ちうるのは、「去った日」が「もどる」というときである。
「日は流れ去って、ふたたびもどることがない」
そうであるなら、この詩のキーワードは「ふたたび」である。「キーワード」であるから、それはほかのところでは省略されている。大事なことば(作者にとっての思想)は、しばしば無意識なものである。意識する必要がないから、書き忘れてしまうのである。それくらい作者の肉体にしみついている。「ふたたび」を別な行に補ってみるとそのことがよくわかる。
だが 詩のなかには「ふたたび」やつてくる
過ぎ去ったものを「ふたたび」いま/ここに呼び「戻す」ことが詩なのである。
そしてこのことは、まったく逆な形で言い直すことができる。過ぎ去っていったものを「ふたたび」とり「戻す」のではなく、先取りしてしまうのも詩なのである。
「過去」を「ふたたび」とり戻すよりも、「未来/まだ存在しない時間」を、あたかも「過去」に体験したことがあるかのように「思い出す」のが詩である。
この、私の説明は「矛盾」しているが、矛盾しているから、それが詩なのだとしか、私にはいえない。
その「矛盾」を嵯峨は次のように書いている。
死のなかを通る日をきみはいつ見たか
どのような言葉でその不在の日を捕えたか
死はだれにとっても「未来」であり、それは存在していない。この存在していないもの(不在)を先取りするものこそが詩である。
この「不在」は「すでに存在したもの/既在」によって、「予兆」のようにして書いたものが詩。死のなかに「不在」がやってくる。しかも、それは「ふたたび」なのである。
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