監督 ウッディ・アレン 出演 ジェシー・アイゼンバーグ、クリステン・スチュワート、ブレイク・ライブリー、スティーブ・カレル、ウッディ・アレン(ナレーター)
私はこの映画の感想を書くのに向いていない。目が悪くて、映像の陰影をはっきり識別できないからだ。最近のウッディ・アレンの映画の特徴は映像の陰影である。それがはっきりと見えない。
映画は二部にわかれている。前半はハリウッドが舞台。後半はニューヨーク。光が違う。その光の違いを「まぶしさ」に焦点を当てて描くのではなく、「陰影」に焦点を当てて描いている。
ハリウッドの戸外の明るい光。そのなかで人が正面から光を浴びるシーンは少ない。逆光のなかで「輪郭」が光る。表情は「陰影」のなかにある。室内に入り込む陽光も窓や扉をくぐりぬけてくる「陰影」に富んだもの。そのなかで役者が演技をしている。
テーマはストレートな感情ではなく、「陰影」に富んだ感情である。
ジェシー・アイゼンバーグが娼婦を買うシーンすら、「欲望」ではなく「感情」がテーマ。ふたりの感情が揺らぐ。それを、笑いを誘うことばで隠しているが、描いているのは「感情」の陰影。「感情」がどう動くか、その「揺らぎ」を互いにどう読み取るか。
これが、まあ、延々とつづく。
互いにひかれているのに、だからといって結婚に結びつかないふたり。その感情の「陰影」を、三角関係の乱反射のなかでみせる。この三角関係は単なるストーリーとしておもしろいのではない。むしろ三角関係など、ストーリーにとっては「常套手段」である。つまらない展開である。(見え透いた展開である。)
見なければならないのは、「陰影」である。ハリウッドの強い光は、単に影をつくるだけではない。強い光が「対象」以外のものを「反射光」として照らす。
クリステン・スチュワートの「顔(感情)」を照らすのは太陽の物理的な光だけではない。スティーブ・カレルから反射してくる「光」が照らしだすものがある。ジェシー・アイゼンバーグは最初はその「反射光」がつくりだす「陰影」を識別することができないが、やがて知ってしまう。「陰影」の微妙さ、その美しさのなかに「他者からの反射光」が存在することを知ってしまう。つまり、それを読み取れるようになる。こういう「陰影」が可能なのは、ハリウッドの「戸外の光(自然光)」があまりにも強くて、「反射光」になっても強烈なままであるということと関係している。
ニューヨークでも「陰影」がテーマ。ただし、ニューヨークは「陽光」ではなく室内の「人工の光」がつくりだす陰影が主役。あるいは、「陰影」には最初から「他者」が関係している。「他者」からの「反射光」が含まれている。ハリウッドのシーンが、もっぱら「恋人」がテーマだったのに、ニューヨークは「家族」がテーマである。家族のなかで動く「感情の陰影」。「恋人」が新しい関係だとすると、「家族」は古い関係。「恋人」は人を自分の外へ連れ出すのに対し、「家族」は人を自分のなかへ引き戻す。そのなかで、さまざまな「感情の陰影」が笑いをからめながら描かれる。これを「人間模様」と言いなおすと、簡便な「常套解説」になる。
そのニューヨークで、一瞬だけ「戸外の光」は描かれる。セントラルパークから見るビルの稜線に反射する朝の光。日中の強い光ではない。このシーンは、ジェシー・アイゼンバーグとクリステン・スチュワートを「過去」をつれもどす大切なシーン。だからこそ、ハリウッドと同じ「戸外の光」を通して描かれるのだが、夜が終わり(夢が終わり)、新しい朝を知らせる光、逆戻りできないことを知らせる切ない光となっている。深い緑。水面に広がる遠い光。それが、ふたりの表情に、いままではなかった新しい「陰影」をつくりだしている。
映画を見ながら、思い出とは何だろう。過去とは何だろう、と考えてしまう。思い出には光と陰がある。陰影がある。陰影には、自然のなかで個人がつくりだす陰影があり、他方に人間関係の乱反射がつくりだす陰影がある。入り乱れる陰影のなかで、ひとは生きていて、そのどちらの陰影も思い出であり、過去である。それは「一夜の夢」なのか、「一夜の夢」をどう抱きながら人間は生きていくのか。そういうことを思いながら、切なくなってしまうのである。
まだ目が見えるときだったら、もう少し丁寧な感想がかけると思うが、どうにも書きようがない。もっと陰影を「身近」に見ることができれば、と半分悔しい思いをしながら見終わった。★5個の映画かもしれないが、私の視力では、5個をつけにくい。
(KBCシネマ2、2017年05月17日)
*
「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
https://www.facebook.com/groups/1512173462358822/
私はこの映画の感想を書くのに向いていない。目が悪くて、映像の陰影をはっきり識別できないからだ。最近のウッディ・アレンの映画の特徴は映像の陰影である。それがはっきりと見えない。
映画は二部にわかれている。前半はハリウッドが舞台。後半はニューヨーク。光が違う。その光の違いを「まぶしさ」に焦点を当てて描くのではなく、「陰影」に焦点を当てて描いている。
ハリウッドの戸外の明るい光。そのなかで人が正面から光を浴びるシーンは少ない。逆光のなかで「輪郭」が光る。表情は「陰影」のなかにある。室内に入り込む陽光も窓や扉をくぐりぬけてくる「陰影」に富んだもの。そのなかで役者が演技をしている。
テーマはストレートな感情ではなく、「陰影」に富んだ感情である。
ジェシー・アイゼンバーグが娼婦を買うシーンすら、「欲望」ではなく「感情」がテーマ。ふたりの感情が揺らぐ。それを、笑いを誘うことばで隠しているが、描いているのは「感情」の陰影。「感情」がどう動くか、その「揺らぎ」を互いにどう読み取るか。
これが、まあ、延々とつづく。
互いにひかれているのに、だからといって結婚に結びつかないふたり。その感情の「陰影」を、三角関係の乱反射のなかでみせる。この三角関係は単なるストーリーとしておもしろいのではない。むしろ三角関係など、ストーリーにとっては「常套手段」である。つまらない展開である。(見え透いた展開である。)
見なければならないのは、「陰影」である。ハリウッドの強い光は、単に影をつくるだけではない。強い光が「対象」以外のものを「反射光」として照らす。
クリステン・スチュワートの「顔(感情)」を照らすのは太陽の物理的な光だけではない。スティーブ・カレルから反射してくる「光」が照らしだすものがある。ジェシー・アイゼンバーグは最初はその「反射光」がつくりだす「陰影」を識別することができないが、やがて知ってしまう。「陰影」の微妙さ、その美しさのなかに「他者からの反射光」が存在することを知ってしまう。つまり、それを読み取れるようになる。こういう「陰影」が可能なのは、ハリウッドの「戸外の光(自然光)」があまりにも強くて、「反射光」になっても強烈なままであるということと関係している。
ニューヨークでも「陰影」がテーマ。ただし、ニューヨークは「陽光」ではなく室内の「人工の光」がつくりだす陰影が主役。あるいは、「陰影」には最初から「他者」が関係している。「他者」からの「反射光」が含まれている。ハリウッドのシーンが、もっぱら「恋人」がテーマだったのに、ニューヨークは「家族」がテーマである。家族のなかで動く「感情の陰影」。「恋人」が新しい関係だとすると、「家族」は古い関係。「恋人」は人を自分の外へ連れ出すのに対し、「家族」は人を自分のなかへ引き戻す。そのなかで、さまざまな「感情の陰影」が笑いをからめながら描かれる。これを「人間模様」と言いなおすと、簡便な「常套解説」になる。
そのニューヨークで、一瞬だけ「戸外の光」は描かれる。セントラルパークから見るビルの稜線に反射する朝の光。日中の強い光ではない。このシーンは、ジェシー・アイゼンバーグとクリステン・スチュワートを「過去」をつれもどす大切なシーン。だからこそ、ハリウッドと同じ「戸外の光」を通して描かれるのだが、夜が終わり(夢が終わり)、新しい朝を知らせる光、逆戻りできないことを知らせる切ない光となっている。深い緑。水面に広がる遠い光。それが、ふたりの表情に、いままではなかった新しい「陰影」をつくりだしている。
映画を見ながら、思い出とは何だろう。過去とは何だろう、と考えてしまう。思い出には光と陰がある。陰影がある。陰影には、自然のなかで個人がつくりだす陰影があり、他方に人間関係の乱反射がつくりだす陰影がある。入り乱れる陰影のなかで、ひとは生きていて、そのどちらの陰影も思い出であり、過去である。それは「一夜の夢」なのか、「一夜の夢」をどう抱きながら人間は生きていくのか。そういうことを思いながら、切なくなってしまうのである。
まだ目が見えるときだったら、もう少し丁寧な感想がかけると思うが、どうにも書きようがない。もっと陰影を「身近」に見ることができれば、と半分悔しい思いをしながら見終わった。★5個の映画かもしれないが、私の視力では、5個をつけにくい。
(KBCシネマ2、2017年05月17日)
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