詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ウッディ・アレン監督「カフェ・ソサエティ」(★★★★)

2017-05-17 20:35:18 | 映画
監督 ウッディ・アレン 出演 ジェシー・アイゼンバーグ、クリステン・スチュワート、ブレイク・ライブリー、スティーブ・カレル、ウッディ・アレン(ナレーター)

 私はこの映画の感想を書くのに向いていない。目が悪くて、映像の陰影をはっきり識別できないからだ。最近のウッディ・アレンの映画の特徴は映像の陰影である。それがはっきりと見えない。
 映画は二部にわかれている。前半はハリウッドが舞台。後半はニューヨーク。光が違う。その光の違いを「まぶしさ」に焦点を当てて描くのではなく、「陰影」に焦点を当てて描いている。
 ハリウッドの戸外の明るい光。そのなかで人が正面から光を浴びるシーンは少ない。逆光のなかで「輪郭」が光る。表情は「陰影」のなかにある。室内に入り込む陽光も窓や扉をくぐりぬけてくる「陰影」に富んだもの。そのなかで役者が演技をしている。
 テーマはストレートな感情ではなく、「陰影」に富んだ感情である。
 ジェシー・アイゼンバーグが娼婦を買うシーンすら、「欲望」ではなく「感情」がテーマ。ふたりの感情が揺らぐ。それを、笑いを誘うことばで隠しているが、描いているのは「感情」の陰影。「感情」がどう動くか、その「揺らぎ」を互いにどう読み取るか。
 これが、まあ、延々とつづく。
 互いにひかれているのに、だからといって結婚に結びつかないふたり。その感情の「陰影」を、三角関係の乱反射のなかでみせる。この三角関係は単なるストーリーとしておもしろいのではない。むしろ三角関係など、ストーリーにとっては「常套手段」である。つまらない展開である。(見え透いた展開である。)
 見なければならないのは、「陰影」である。ハリウッドの強い光は、単に影をつくるだけではない。強い光が「対象」以外のものを「反射光」として照らす。
 クリステン・スチュワートの「顔(感情)」を照らすのは太陽の物理的な光だけではない。スティーブ・カレルから反射してくる「光」が照らしだすものがある。ジェシー・アイゼンバーグは最初はその「反射光」がつくりだす「陰影」を識別することができないが、やがて知ってしまう。「陰影」の微妙さ、その美しさのなかに「他者からの反射光」が存在することを知ってしまう。つまり、それを読み取れるようになる。こういう「陰影」が可能なのは、ハリウッドの「戸外の光(自然光)」があまりにも強くて、「反射光」になっても強烈なままであるということと関係している。
 ニューヨークでも「陰影」がテーマ。ただし、ニューヨークは「陽光」ではなく室内の「人工の光」がつくりだす陰影が主役。あるいは、「陰影」には最初から「他者」が関係している。「他者」からの「反射光」が含まれている。ハリウッドのシーンが、もっぱら「恋人」がテーマだったのに、ニューヨークは「家族」がテーマである。家族のなかで動く「感情の陰影」。「恋人」が新しい関係だとすると、「家族」は古い関係。「恋人」は人を自分の外へ連れ出すのに対し、「家族」は人を自分のなかへ引き戻す。そのなかで、さまざまな「感情の陰影」が笑いをからめながら描かれる。これを「人間模様」と言いなおすと、簡便な「常套解説」になる。
 そのニューヨークで、一瞬だけ「戸外の光」は描かれる。セントラルパークから見るビルの稜線に反射する朝の光。日中の強い光ではない。このシーンは、ジェシー・アイゼンバーグとクリステン・スチュワートを「過去」をつれもどす大切なシーン。だからこそ、ハリウッドと同じ「戸外の光」を通して描かれるのだが、夜が終わり(夢が終わり)、新しい朝を知らせる光、逆戻りできないことを知らせる切ない光となっている。深い緑。水面に広がる遠い光。それが、ふたりの表情に、いままではなかった新しい「陰影」をつくりだしている。

 映画を見ながら、思い出とは何だろう。過去とは何だろう、と考えてしまう。思い出には光と陰がある。陰影がある。陰影には、自然のなかで個人がつくりだす陰影があり、他方に人間関係の乱反射がつくりだす陰影がある。入り乱れる陰影のなかで、ひとは生きていて、そのどちらの陰影も思い出であり、過去である。それは「一夜の夢」なのか、「一夜の夢」をどう抱きながら人間は生きていくのか。そういうことを思いながら、切なくなってしまうのである。
 まだ目が見えるときだったら、もう少し丁寧な感想がかけると思うが、どうにも書きようがない。もっと陰影を「身近」に見ることができれば、と半分悔しい思いをしながら見終わった。★5個の映画かもしれないが、私の視力では、5個をつけにくい。
                      (KBCシネマ2、2017年05月17日)


 *

「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
https://www.facebook.com/groups/1512173462358822/

ミッドナイト・イン・パリ [DVD]
クリエーター情報なし
角川書店
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「嵯峨信之全詩集/時刻表(1975)」を読む(3-17)

2017-05-17 14:59:01 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
「嵯峨信之全詩集/時刻表(1975)」を読む(3-17)(2017年05月17日)

33 *(もう一度そこに立つことがあろうか)

もう一度そこに立つことがあろうか
誰も知らない頂上

 「頂上」は「場所」ではなく「時間」である。「瞬間」である。「時間」と「場所」は違う概念だが、人間は概念を混同する。どこかに「概念の肉体」というものがある。「人間の肉体(いのちの肉体)」が「ひとつ」であるように「概念の肉体」もひとつであり、切り離してしまっては「いのち」ではなくなるのかもしれない。

つかのまのうちに明るく輝いて消えてしまつた頂上
そこではなにもかも二倍も三倍も大きくなつた

 「頂上」は「輝き(光)」と言い換えられ、それが「大きくなる」という変化するものとして言い換えられていく。
 この「言い換えの変化」のなかに詩がある。
 「概念」の「仕切り」(いまはやりのことばで言えば「しきい」か)を超えていくことば。「しいき」を超えることができる「ことばの肉体」。
 さらに、嵯峨はそれを変化させるのだが。

たとえば掌ほどの希望が
壁いつぱいにかかつている大きな世界地図のように

 この「概念」から「比喩」への変化が、とてもおもしろい。
 「輝き(ひかり)」は「希望」ということばで言いなおされ、「二倍も三倍も大きくなつた」は「掌」から「世界地図」へと言いなおされる。
 「概念」が「もの」として見えてくる。
 この変化の中に、詩がある。

* 34(どこまで行つても)

どこまで行つても
辿りつかなかつた死の国では
噴水はふるえる影をその日よりさらに前方へひろげようとする

 「矛盾」の多いことばである。「矛盾」とは「論理的ではない」ということ。
 「死の国」へたどりついてしまったら、ことばは書かれない。書くということは、死んでいないということである。
 「ことばの肉体」は「論理」の「しきい」を超えてしまう。その「超え方」のなかに詩がある。

噴水はふるえる影をその日よりさらに前方へひろげようとする

 これは、「空想」である。「死の国」に辿り着いていないのだから、「死の国」の描写は不可能である。「空想」は嘘である。しかし、この一行を読んだとき、それを「嘘」と感じるか。感じない。
 「論理的ではない」という言い方には、何か、変なものがある。
 「論理的ではない」のに、あることばには「必然」を感じる。
 この「矛盾」した感覚の中に詩があるということなのか。


嵯峨信之全詩集
クリエーター情報なし
思潮社


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする