詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ドゥニ・ビルヌーブ監督「メッセージ」(★)

2017-05-21 21:17:59 | 映画
監督 ドゥニ・ビルヌーブ 出演 エイミー・アダムス、ジェレミー・レナー、フォレスト・ウィテカー

 中国かぶれのアメリカ人が思いついたんだろうなあ。中国語には時制がない。現在、過去、未来は文脈から考える。漢字(表意文字)が時制を消し去っている。それから……中国人は墨で文字を書く。最後の墨は笑い話みたいだが、これが宇宙人をタコともイカともつかない姿にしている。墨を吐くところから、こんな姿になったのだろうなあ。
 時制に苦しんだ女の言語学者が、この時制のない世界を発見するというのがこの作品のテーマ。
 つまり。
 時制の言語を生きているアメリカ人が、中国語に時制がないということろから、もし時制がなかったならという「発想」で、この映画を作っている。
 で、一見、「哲学風」に見えるんだけれど。
 私はこういう頭でっかちの映画が大嫌い。

 ストーリーは、こんな具合。
 女はこどもを産む。こどもには遺伝的な(?)障害があり、長く生きられないことがわかっている。そのことをめぐって夫と対立し、離婚する。懸命にこどもを育てるが、やっぱり死んでしまう。そういうトラウマ(?)をもった女が主人公。
 これが異星人と出会う。言語学者の知識を動員して、異星人と対話する。異星人は声ではなく表意文字(何だか全坊主が描く円のようなもの、筆の勢いが線の細部をつくりだす)で「会話」していることを発見する。表意文字なので、時制がないということも発見する。
 「映画を見る」を中国語で何というか私は知らないが、「映画」と「見(あるいは観)」という文字が組み合わさったものだろう。「映画+見」。それだけでは「映画を見る」か「映画を見た」か「映画を見るだろう」かわからない。
 で、そういう時制のない世界に入り込むと、娘と暮らした過去が次々に思い出されてくる。過去のことなのに、現在として、いま、それを体験してしまう。そしてその体験がヒントになり、「未来」(知らない世界を解読する)ということが動き始める。
 その過程で「ことば(言語)」こそが人間の武器である、というようなテーマも語られるのだけれど。
 うわーっ、あほらしい。
 小説で読むなら、これはこれで説得力があるだろうけれど、映画でわけのわからない表意文字を見せられて、かってに「意味」をつけくわえられてもねえ。
 漢字の発生を知っている人なら、基本的な漢字は突然「表意文字」になったのではないということがわかる。「木」は木の形をなぞったもの。「人」は人間が助け合う姿。そういう「過程」を「円」のなかに組み込まないと説得力がないでしょう。「人間(ヒューマン)」というアルファベット(表音文字)を表意文字を生きているひとに見せたって、すぐに通じるわけがないでしょう。
 このあたりが、まるでむちゃくちゃ。表意文字を生きる人間が表音文字をどう理解するか、という「過程」を描かないと、「交流」にならないでしょ?
 で、さらに輪をかけてむちゃくちゃなのが、男が数学者であること。
 一方に「言語学者」がいて、それだけではサイエンスフィクションにならないから科学の基本である数学をもってくるというのは、まあ、「狡賢い知恵」なのだけれど、これがぜんぜん噛み合わない。最後の方で、「時」という「表意文字」を発見し、その配列から「1/12」という数字を出すところ、12の存在が協力する必要があるということを証明するという活躍(?)をするのだけれど、それが組み合わさったらどうなるか、というのを数学的に展開するわけじゃないからね。
 異星人とのコンタクトを描いたものでは、やっぱりスピルバーグの「未知との遭遇」が一番だなあ、とあらためて思い出す。山を越えて宇宙船がひっくりかえるところ(天地が逆になるところ)なんかは、椅子に座ったまま後ろへでんぐり返りしそうな感動があるし、なによりも「言語」を「音楽」と「光」で生み出しているのがすばらしい。「ことば」はどんなに考えてみたって最初は「音」。「文字」はあとから「記憶」を定着するために生み出したもの。「表意文字」をつかって「会話」するというのは、異質な存在の出会いとしては絶対に無理。
 ひさびさに、いやあな気分になる映画だった。

 あ、私はキャナルシティの6番スクリーンで見たのだが、スクリーン中央より、少し左にずれた部分にスクリーンに傷がある。かなりの大きさで、長方形(縦長)で、その部分が白っぽくなる。目の悪い私は気になってしようがなかった。
     (2017年05月21日、ユナイテッドシネマ・キャナルシティ・スクリーン6)

 *

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「嵯峨信之全詩集/時刻表(1975)」を読む(3-21)

2017-05-21 09:44:19 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
「嵯峨信之全詩集/時刻表(1975)」を読む(3-21)(2017年05月21日)

41 架空な時間

永遠が瞬間のなかを通るたびに
一本の紅蝋燭の炎がゆれる

 繰り返し読んでしまう美しい二行だ。そして、繰り返し読んでいる内に「一本」ということばに気がつく。なぜ、「一本」なのだろうか。何本も蝋燭がある。そのなかの「一本」なのか。
 「だがMAKIは来た」という一行がある。MAKI、特定の女、ひとりの女。その「ひとり」と「一本」が重なる。MAKIこそが「永遠」なのだ。
 そうすると、「瞬間」とは嵯峨自身であり、「一本の蝋燭/炎」もまた嵯峨である。MAKIがやってくる。そうすると嵯峨のこころが炎のようにゆれる。
 あ、これではMAKIが「一本」と重なると書いたことと矛盾するか。
 形式的論理ではそうかもしれない。しかし「誤読の論理」では矛盾にならない。
 「一本」ということばのなかでMAKIと嵯峨が重なる。重なって融合し、その内部から新しい世界が広がる。「一本」はMAKIであるが、MAKIとは限定できない。別の次元が始まる。MAKIであるが、同時にMAKIによって存在が強化される嵯峨自身にもなる。

夜は--
どこから始めてもさいごはそこで終る夜だつた

 「夜」は「夜」に重なる。「ひとつ」になる。永遠は、この「ひとつ」の感覚のことだろう。「ひとつ」のなかに永遠がある。「ひとつになる」ことが永遠だ。

42 *(ある「時」の中に)

ある「時」の中に
さらに純粋な「他の時」がある
真夜中 ある頁の上にぽとりと一滴の涙を落した

 「時」「他の時」という二つが「一滴」の「一」になる。「ある頁」とは「ある一頁」のことである。「複数」と「一」が交錯し、さらに動く。

ぼくを残して 夜はそのまま過ぎていつた
ぼくは泣きながら しだいにぼくからそのぼくを頒つたのだ

 「一」の意識が「頒」ということばで複数に乱れていく。

嵯峨信之全詩集
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思潮社


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