「嵯峨信之全詩集/時刻表(1975)」を読む(3-8)
15 幸福
「どうしても思い出せない」の「どうしても」という強調がこの詩のキーワードだろう。「思い出せない」ということよりも「どうしても」ということの方を書きたい。
「思い出す」という動詞は次の行で「歩いていつた」という動詞にかわる。「どうしても」は「どこまでも」ということばにかわる。「果てがない」ということが、「どうしても」なのだ。繰り返し繰り返し「思い出そうとしている」。その「繰り返し」に「果てがない」。
「どこからも」は「どこまでも」に「どこ」ということばが通じている。
「どこまでも」は「歩いていつた」の「いく」という動詞になり、「どこからも」は「くる」という動詞を呼び寄せる。
「いく」と「くる」は「どうしても」のなかでうまく合致できないでいる。
しかし、これを「幸福」と呼ぶ。「幸福」とは実現しないことを夢見ることができることだろうか。
16 *(どうしても動かない部分があつた)
この詩にも「どうしても」が登場する。この「どうしても」は「方法」というよりも、「永遠」を指している。「永遠に動かない部分があつた」。「永遠」と読み直すと「魂しい」ということばと相性がよくなるようだ。
しかし、なぜ「ある」ではなく、「あつた」と過去形なのか。
「光りが死んで別なものになつたのだ」が「過去形」だからである。「樫の大木」だから、それは「過去」、ずいぶん遠い「過去」になるだろう。嵯峨が生まれる前から「ある」もの。それが「魂しい」ということになる。
嵯峨のなかで「何かが死んで別になつたもの」というよりも、それは、嵯峨の生まれる前から存在し、いま嵯峨に引き継がれている。「あつた」はそれが嵯峨だけのものではなく、嵯峨以前のひとのものをも引き継いでいるということを語っているのだと思う。
「魂しい」は自分のものであって、また「過去」のひとのものなのである。その「過去」とつながることで「いま」が「永遠」になる。「どうしても」になる。
「おまえ」は「樫の大木」であると同時に「魂しい」でもある。手を置くのは、それを「引き継いだ」と相手の手に伝えるためである。
15 幸福
忘れた名はどうしても思い出せない
遠い路をどこまでも歩いていつた
どこからも合図などない
「どうしても思い出せない」の「どうしても」という強調がこの詩のキーワードだろう。「思い出せない」ということよりも「どうしても」ということの方を書きたい。
「思い出す」という動詞は次の行で「歩いていつた」という動詞にかわる。「どうしても」は「どこまでも」ということばにかわる。「果てがない」ということが、「どうしても」なのだ。繰り返し繰り返し「思い出そうとしている」。その「繰り返し」に「果てがない」。
「どこからも」は「どこまでも」に「どこ」ということばが通じている。
「どこまでも」は「歩いていつた」の「いく」という動詞になり、「どこからも」は「くる」という動詞を呼び寄せる。
「いく」と「くる」は「どうしても」のなかでうまく合致できないでいる。
しかし、これを「幸福」と呼ぶ。「幸福」とは実現しないことを夢見ることができることだろうか。
16 *(どうしても動かない部分があつた)
どうしても動かない部分があつた
それをぼくは魂しいと呼ぶ
この詩にも「どうしても」が登場する。この「どうしても」は「方法」というよりも、「永遠」を指している。「永遠に動かない部分があつた」。「永遠」と読み直すと「魂しい」ということばと相性がよくなるようだ。
しかし、なぜ「ある」ではなく、「あつた」と過去形なのか。
樫の大木に耳をあてると同じようなかたまりがなかに潜む
光りが死んで別なものになつたのだ
「光りが死んで別なものになつたのだ」が「過去形」だからである。「樫の大木」だから、それは「過去」、ずいぶん遠い「過去」になるだろう。嵯峨が生まれる前から「ある」もの。それが「魂しい」ということになる。
嵯峨のなかで「何かが死んで別になつたもの」というよりも、それは、嵯峨の生まれる前から存在し、いま嵯峨に引き継がれている。「あつた」はそれが嵯峨だけのものではなく、嵯峨以前のひとのものをも引き継いでいるということを語っているのだと思う。
「魂しい」は自分のものであって、また「過去」のひとのものなのである。その「過去」とつながることで「いま」が「永遠」になる。「どうしても」になる。
ぼくはおまえの手の上にぼくの手を置く
「おまえ」は「樫の大木」であると同時に「魂しい」でもある。手を置くのは、それを「引き継いだ」と相手の手に伝えるためである。
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