詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

金子敦『音符』

2017-05-20 12:14:46 | 詩集
金子敦『音符』(ふらんす堂、2017年05月05日発行)

 俳句を読むのはむずかしい。現代詩でも小説でも、ことばは繰り返される。大事なこと、言いたいことを人間は繰り返すものである。繰り返しの中にある変化をたどると、何かが少しずつ結晶してくる。
 俳句には、この繰り返しがない。十七文字しかないから繰り返さない。だから、変化がたどりにくい。俳句は変化ではなく、一瞬を描くのかもしれない。

 金子敦『音符』。

俺元気といふ三文字の年賀状

 この句が、気に入った。どこか破れているところがあって、スムーズではない。言い換えると、美しくない。その美しく整っていないところが妙に印象に残る。他の書き方(詠み方)があるのかもしれないが、この一種の不格好が、「俺元気」という三文字が暴れているようで、楽しい。
 書かれていないが、「大きい」が隠されている。小さな文字ではなく、大きく「俺元気」と書いてある。もしかすると「俺元気」としか書いてないのかもしれない。新年の挨拶はなく、ただ乱暴に「俺元気」とはがきからはみ出すように書かれている。
 「大きさ」を思って、私はうれしくなった。

 現代は、なぜか「繊細」を「美しい」と定義しているように感じられる。古今以来の伝統かもしれない。金子の句にも「繊細」なものがある。そして、繊細なものの方が「高評価」されていると感じるが、もう一方の「大きい」の方が俳句を開いていくかもしれない。

太陽よりも大きく描かれチューリップ

 この句にも「大きい」があり、そこでは「太陽よりも」ということばがあるのだが、わたしは「太陽」を無視して、画用紙からはみ出して描かれるチューリップを思った。だって、「太陽」は遠くにあるので「小さく」見える。近くにあるチューリップの方が大きく見えるのが「肉眼」の世界。
 「チューリップよりも太陽が大きい」というのは「知識」。たとえばはじめて写生にでかけた幼稚園児はそんなことは知らない。だから太陽よりもチューリップが大きいのは「おかしい」と言われても、何を言われているかわからないだろう。
 金子の「大きい」には、何か、「知識」を否定する野蛮がある。この野蛮に、私は惹かれる。

歯磨きの大き塩粒夏に入る

噴水はまこと大きな感嘆符

太巻の玉子はみだし運動会

 「太巻」の句には「大きい」ではなく「太い」がつかわれている。「大きい」と「太い」は似ている。そしてそれは「はみ出す」という動詞になって動く。
 「歯磨き」の句は「はみ出す」とまではいかないのかもしれないが、一種の異物感が「大きい」ということばになっている。他の句はみんな「はみ出す」。「俺元気」は文字がはがきからはみ出し、「チューリップ」は画用紙からはみ出す。噴水は、水からはみ出す。そこにエネルギーがある。あふれる力がある。野蛮がある。これは、古今集以後の日本人(日本語)が失った力かもしれない。
 巻頭の、

大いなる果実のやうな初日の出

 このあいさつ句にも「大きい」がある。
 「大きい」は、ある意味で「平凡」である。意識しなくても目に入ってきてしまう。だが、この平凡を悠然と受け止める力は、けっして平凡とは言えないだろう。
 力がある。強さがある。

 「小さい」をつかった句と比較すると私の言いたいことが言いやすくなる。

ケーキから小さき聖樹そつと抜く

 これは、私にはつまらない。「小さき」と「そつと」がうるさいからかもしれないが、「繊細」へ目を向ける窮屈さが、どうもなじめない。
 思わず「×」をつけてしまったものに、

フェルメールの光を曳いてゆく蛍

 「わかる」けれど、その「わかる」が、いやあな気持ちにさせられる。「知識」が入ってきてしまう。「肉体」の自然が否定されている感じがする。
 で。
 フェルメールは日中の光を描いている。闇のなかの光(闇に揺れる光)ならレンブラントやラトゥールではないか、と意地悪を言いたくなる。

マネキンに涙描かれ冬の蝶

 これも、いやだなあ。フェルメールと同じように「繊細」が「通俗」になっている。「はみ出していく」ものがない。
 「実景」というよりも、「架空」。つくりもの。

 中間項(?)に、美しい句がある。

春惜しむ画鋲を深く刺し直し

菜箸は糸で繋がり星祭

 視線が自然に誘われる。「実景」の確かさがある。言い換えると、あ、これは「肉体」が覚えている。しかし、ことばにすることを忘れていた。そういうことを思い出させる句である。
 「菜箸」は目で見ただけでも詠むことができる句かもしれないが、実際につかったことがあるひとの句だ。手で箸を動かす。そのとき糸でつながっていることに、ちょっと不便と驚きを感じたその「肉体」の記憶。肉体のわずかな動き。
 「小さい」はつかわれていないが、ここには「小さい」が隠れている。
 「画鋲」も同じ。「深く刺し直す」の「深く」と「直す」に「小さい」動きがある。実際にそうしたことがある人だけが「わかる」ものがある。その「わかる」は肉体が覚えていることである。
 フェルメールの句は、肉体が覚えていることではなく、むしろ「頭」が覚えていることだ。「知識」の句だ。

盆踊果てて手足のただよへる

 この「ただよへる」もいいなあ。一生懸命踊ったあと。一生懸命を「我を忘れて」と言いなおすと「はみ出す」(大きい)に通じるかなあ。これも肉体が覚えていることだ。

春を待つとんとんとんと紙揃へ

凭れたる壁がべこんと海の家

 「とんとんとんと」と「べこんと」にも肉体がある。読みながら、思わず私自身の「肉体」も動いてしまう。肉体のなかで、そのときのことがくっきりと蘇る。 

 (2012年の句から感想を書いた。全体の五分の一である。おもしろい句があるので、ぜひ、買って読んでください。)
音符
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「嵯峨信之全詩集/時刻表(1975)」を読む(3-20)

2017-05-20 10:58:05 | 谷川俊太郎「詩に就いて」
「嵯峨信之全詩集/時刻表(1975)」を読む(3-20)(2017年05月20日)

39 *(砂の上に文字を書いては消し)

書くことと 消すことのあいだをゆきかえるぼくの心は
いつまでぼくに残るか
もし ぼくから去つていくなら何処へたち去るか

 文字を書いては消す。そのたびにこころが動く。「ゆき、かえる」という往復の動詞でとらえているのだが、最後に「残る」「たち去る」という動詞に変わる。
 「去る」は「行く」か。
 「行く」は「帰る」と対になるが、対であることを拒絶するのが「去る」なのだろう。そして、「去る」は「残る」という対を要求する。
 あるいは逆か。「行く」「帰る」という果のない運動のなかで生まれる「不安」が「残る」を誘い出し、それがさらに「去る」を誘い出すのか。
 動詞が微妙に動いている。
 「残る」のは「心」をなくした「肉体」か、それとも「去っていった心」を思う「心」か。

40 白あじさい

深夜
白磁の壺の中に一茎の白あじさいの花がさしてある

 「白」が繰り返されることで、さらに「白く」なる。違ったものが、同じ何かによって、さらに強くなる。深くなる。
 「行く」「帰る」の往復運動と、「残る」「去る」の永遠を思う。
 いくつかのことばが動き、そのあと、

それらの言葉のなかを何かが過ぎていつた
言葉のあわただしい夜の上を

 このときの「言葉」は「白」そのもの。「白」のなかを別の「白」が過ぎてゆく。そうすることで、それぞれの「白」がさらに「白く」なる。
 「白」ではなく、「なる」という「動詞」がそこにある。あるいは、生まれてくるのか。「過ぎていつた」を「去つていつた」と読み替えたい。
 誤読したい。
 だが、どう「誤読」していいのか、明確なことばにならない。この瞬間「言葉のあわただしい夜」の「あわただしい」が生々しく迫ってくる。
 「あわただしい/あわただしく」しか、わからない。いや、「あわただしい/あわただしく」が「肉体」としてわかってしまう。
 「白」と「白」。繰り返されるとき、無数に生まれ、去っていく「白」がある。


嵯峨信之全詩集
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思潮社


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