詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

粕谷栄市「山鶯」

2017-05-01 09:21:36 | 詩(雑誌・同人誌)
粕谷栄市「山鶯」(「森羅」4、2017年05月09日発行)

 粕谷栄市「山鶯」は、妻と二人で梅の花見に行ったときのことを書いている。花盛り。ちらほら散り始めているものもある。
 そういう描写のあと、

 生きていれば、こんなひとときを過ごすこともある。

 この「生きていれば」が、とても奇妙だ。私は瞬間的に、粕谷は死んでしまって、生きていたときのことを思い出しているのかと感動したのだが。
 そうではなくて、たぶん、いろいろなことがあっても生きてさえいれば、こんな幸福なひとときを過ごすこともあるという感想を持った、ということだろう。そういう至福の瞬間を、いま、生きているということだろう。
 そういうふうに誰かが言うのを聞いたことがある。読んだこともある。
 しかし、どうしても、死んでしまった人の感想だなあと思ってしまう。
 全体の描写が「いま」を書いていながら、どこか「過去」を書いているような、不思議ななつかしさがある。思い出を書いているとしか思えない部分がある。
 もともと粕谷の文体は「いま」を書きながら、自分の外にある「いま」というよりも、自分のなかにある「時間」を書くことで成り立っている。「現実」というよりも「思い」を書くことで成り立っている。「現実」にはありえないことも、「思い」のなかでならありうる。「ことば」のなかでならありうる。
 同じ号の「帽子病」がまさにそういう作品だ。「現実」に「帽子病」というものはないかもしれないが、粕谷の「思い」のなかには存在して、「ことば」として動く。「現実」と「思い」が重なり、ずれながら動いている。
 「現実離れ」していると言ってもいいかもしれない。
 で、この「現実離れ」が「死後から見た現実」、もう死んでしまっていて、生きているときのことを思い出している、という印象を引き起こす。
 二人は、そこで酒と昼餉で、ささやかな宴会を始める。

 こんなことは、夢のなかにしかないものだろう。だか
ら、そこで、私たちが手を取り合ったとたん、互いの男
女のすがたが、全く、消えてしまったとしても、ふたり
の羞恥の心からばかりではなかったかもしれない。
 この世には、おわりのない物語があってもいいのだ。
めずらしく暖かい二月のその日、誰もいない満開の梅の
林に、それから、やってきたのは山鶯たちだった。
 一羽また一羽、そこかしこで、高く鳴きかわして、い
つ果てるともしれなかった。

 「夢のなかにしかない」「終わりのない物語」は同じことを指している。「夢」は「思い」(現実ではない)ということであり、「現実ではない」というのは「終わりのない」ということでもある。「現実」というのは人間の死とともに、そのひとにおいては終わってしまうものだから。
 粕谷は「現実」など気にしていないのだ。「思い」と「現実」は違っている。「思い」の方を、いつでも選び取る。
 最後の「一羽また一羽」は李白の詩の「一杯また一杯」と同じで「1+1=2」ではない。「1+1=無限」である。「1」は「現実」ではなく「思い」と考えるといいのかもしれない。「無限」だから「いつ果てるともしれなかった」ということになる。

 生きていれば、こんなひとときを過ごすこともある。

 には、「いま、死んだってかまわない」という至福があって、その感じが強すぎるために、まるで死んだ世界からこの世を眺めているという感じになるのかもしれないとも思った。
 山鶯になってしまった粕谷の至福に誘い込まれて、私もまた山鶯になるのだった。山鶯になるために梅を見に行きたいと思うのだった。

続・粕谷栄市詩集 (現代詩文庫)
粕谷 栄市
思潮社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「嵯峨信之全詩集/時刻表(1975)」を読む(3-1)

2017-05-01 00:00:00 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
1 *(運命が--ひとつの消去法がぼくを喰いつくし)

 「入江のほとり」。「*」(209 ページ)だけの断章がいくつもある。区別するために一行目を( )に入れてタイトルがわりにしておく。(目次に倣った。)

運命が--ひとつの消去法がぼくを喰いつくし
影だけがそこにとどまっている
彼方 夜の海
その方へぼくの影はひとりさまよい行こうとする

 「運命」を「ひとつの消去法」と言い直している。「運命」とはあらかじめ定まっているものだろうか。その定まっているものを「消去」していく。「達成」ではなく、「消去」。ここには、ひとは「死ぬ」運命を生きているということが前提として考えられている。「死」へ向かって、いのちを少しずつ「消去」していく。「消去」は、また「喰いつくす」という「動詞」で言い換えられている。「喰う」だけではなく「つくす」というところに力点がある。「いのち」が「無」になる。それが「死」なのだろう。
 このとき「影」とは何だろう。
 「ぼく」は「喰いつく」され、「消去」されるが、「影」は残っている。「いのち」を「肉体」とすれば、「影」は「精神/ことば」かもしれない。
 それは「ぼく」から離れて、自由になり、海の彼方へ「さまよい行く」。「さまよう」よりも「行く」という動詞に力点がおかれている。
 そう読みたい。
 この詩を書いたとき、嵯峨は青春ではない。七十三歳である。だから「死」も意識されているのだろうが、「夜の海」の「彼方」へ「行く」というロマンチックな表現に、青春が残っている。いや、それは青春の抒情そのものという感じがする。



2 入江のほとり

もを何年も昔から
ぼくの小さな船着場にやつてくる船はない
血の岸で草むらの小さな闇が囲み終つた
そこに死は簡単にやつてくる

 「ぼくの」という限定が、「実景」ではなく「心象風景」であることを語っている。「血」「闇」「死」が静かに結びついている。
 そのあと、

他の岸は大雪だ
やわらかに全てが忘れられている

 「ぼく」と「他(人)」が「対比」されている。「雪」は「冷たい」。そこにも「死」を感じ取ろうとすれば感じ取れるかもしれないが、ここではたぶん「血/赤」に対して「雪/白」が対比されているのだろう。
 この対比のあと、

ただ一軒の安宿(ホテル)にいま灯がはいつたばかりだ

 この一行が、「ぼく」の「心象」に対して、呼応する。何か、誘いのようなものがある。
 「灯」は「やわらかな/赤」い色をしていると思う。
 そこには「ぼく」と通じる誰かがいる。
 そういうことを想像しながら読んだ。
嵯峨信之全詩集
クリエーター情報なし
思潮社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする