詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

「前川抹殺事件」その2

2017-05-28 16:54:33 | 自民党憲法改正草案を読む
「前川抹殺事件」その2
               自民党憲法改正草案を読む/番外79(情報の読み方)

 前川・前文部次官への菅官房長官の人格攻撃と、それに追随する報道は、「前川抹殺事件」と呼ぶべきものだと思う。
 前川が「出会い系バー」に出入りしていたことは前川が認めている。その写真も「証拠」としてある(という)。
 私が一番気がかりなのは、いったい誰が前川が「出会い系バー」に出入りしているという情報を提供したか、ということ。そして、誰がどのような方法でそれを確認したかということ。
 ひとのやっていることだから、どこからでも噂は立つ。前川が部下といっしょに飲んでいて、「用事があるから」と席を立つ。それを誰かがたまたま追いかけて行ったら「出会い系バー」に入っていくところを見てしまった。そして同僚に話した、ということはあるかもしれない。偶然発覚する「秘密」というのは、往々にしてあるだろう。ここまでは、まあ、人間のやることだから仕方がない。人間は噂話が好きである。
 しかし、その「秘密」を写真にとって「証拠」として示すというのは、どうだろう。「証拠」としてつきつけるというのはどうだろう。異常じゃないだろうか。何のために、他人の「秘密」を「証拠」までつけて、暴く必要があるのだろう。部下が自発的に前川の問題点を内閣に知らせたのか。何のために? 出世のために? 前川を失墜させるために? もし、部下ではないとしたら、誰が? 内閣が「探偵」をやとった? 警察に尾行を指示した? 何のために?
 もし、内閣が偶然噂を耳にしたのだとしたら、それが事実かどうか前川に確認し、事実だと認めれば注意するだけで十分だろう。写真を突きつけることはないだろう。
 さらに、前川が「出会い系バー」に出入りしていたことを認めたからといって、その情報をマスコミに提供し、報道させるというのは、どういうものなのだろう。現職の次官ではない。文部省をやめている。そういう人間の「過去」の「プライバシー」を明らかにすることで、いったい何の役に立つのか。まったくわからない。

 今回の事件は、いくつもの問題点を抱えている。
 前川が認めたのは「出会い系バー」に出入りしているということ。そこで何をしたか、明らかになっていない。前川がバーに出入りしていると指摘した官房長官も読売新聞も「証拠」を提出していない。国民と読者の「想像力」にまかせている。
 前川がたとえばそこで働いている女性に金を払い、肉体関係を持った、というのなら、その「証拠」が必要だ。いつ、どの女性と関係を持ったのか。その関係を女性は認めているのか。前川は認めていないが「証拠写真」があるというのか。前川は、そういう事実があったと言っているのか。前川がそういう関係を否定しているとしたら、それでもなおかつ「出会い系バー」に出入りしたというだけで、前川に対する「人格攻撃」をしていいのか。
 前川は「貧困問題の調査をした」というようなことを言っている。つまり、「いかがわしい関係」はないと言っている。そういうところに出入りして、いかがわしい関係がないというのは信じられない、というのは普通の感想である。でも、それは感想でしかない。空想、あるいは俗人の欲望(妬み、自分もしてみたい)を暗示するものでしかない。空想で「人格攻撃」をすることは許されない。権力がそんなことをするのを許してはならない。
 前川については、夜間中学校でボランティアをしている(していた)という情報がある。さらに、前川の祖父は財団をつくり、機会に恵まれないひとを支えていたという情報がある。前川は、そういう祖父の行為をひきついで行動していることになる。そういう情報を配慮すると、前川が「出会い系バー」で女性たちの状況を聞き取り、何らかの救済策を考えようとしていたと想像することができる。美しすぎる想像かもしれない。けれど、美しいからといって「嘘」とは言えない。
 人間にはいろいろな側面がある。一面だけ見て、その人間を「断定」できない。
 批判するには客観的「証拠」が必要である。

 なぜ、前川の「過去のプライバシー」が問題なのか、そのためになぜ「人格攻撃」されないといけないのか。また「過去のプライバシー」として取り扱われていることがらが、ほんとうに批判されなければならないことなのか、批判に値する証拠はどこにあるか、そのことが問われなければならない。
 誰が、何のために、前川の「過去のプライバシー」を問題としているのか。その「過去のプライバシー」を誰が、どうやって調べたのか。誰が調査を指示したのか。その「過去のプライバシー」に「犯罪性」はあるのか。「犯罪性」を裏付ける「証拠」はあるのか。

 「噂話」による「冤罪」がでっちあげられようとしているではないのか。

 もし、ここで前川の「冤罪」がでっちあげられれば、それはそのまま、あらゆる国民の「冤罪」がでっちあげられるということである。
 人の行為の一部分だけを取り上げ、「犯罪」がでっちあげられる。国会で話題になったが、桜の下を望遠鏡を持って歩けば、犯罪行為の下見である、と言われかねない。目的がバードウォッチングであると言っても聞いてもらえない。
 共謀罪(治安維持法)は、政府によって先取り実施されている。それが前川事件の本質である。政府にとって不都合な人間は、「罪状」をでっちあげて葬り去る、ということが始まったのである。
 (そして、この気に食わない人間を「沈黙させる」という方法は、昨年の「天皇制限退位」のNHKスクープから始まっている、と私は感じている。)

 また、前川が現職時代に加計学園問題を提起しなかったのはおかしいという批判も、とても奇妙である。
 そのときは問題を提起できなかった。だけれど、いまはそれを反省して、問題点を指摘している。それがなぜ批判の対象になるのだろう。ひとにはできないこととできることがある。できるようになったとき、それをしてなぜ悪いのだろう。できるようになったときに、しないということが悪い。
 過去にできなかったのだから、いまもするな、という論理は、とてもおかしい。
 多くのひとは、たいてい「正しいこと」を遅れてやる。
 「おかあさん、ありがとう」というような簡単なことさえ、ひとは母を亡くしてしまってから、やっと言う。「遅れて」やってしまうのが人間なのだ。「遅れて」やったからといって、「遅れた」ひとを攻撃してどうなるのだろう。
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「嵯峨信之全詩集/時刻表(1975)」を読む(3-28)

2017-05-28 00:20:36 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
「嵯峨信之全詩集/時刻表(1975)」を読む(3-28)(2017年05月28日)

55 *(星の持つている記憶を奪わないと)

星の持つている記憶を奪わないと
ぼくのアリバイは成立しそうもない

 二行の詩がつづく。
 この作品は、何のことかわからない。

56 *(もはや其処しかない)

もはや其処しかない
狂つた男の頭の中がぼくの唯一の安住の地である

 「狂う」と「安住」が結びつく。「頭」と「地」が結びつく。矛盾というが、反対のもの(対極のもの)が結びつき、バランスをとる。「逆接」ということができる。
 その一方、「男」と「ぼく」という結びつきがある。「男」を他人と読めば、自分と自分ではないものだから「逆接」になるのだが、私はそうは読みたくはない。
 「男」の性は「男」。「ぼく」の「性」は「男」。「男という性」を手がかりにして、「男」と「ぼく」は接続している。これは「逆接」ではなく「順接」ということになる。
 「逆接」と「順接」のまんなかに「唯一」ということばがある。「接続」の「一点」(接点)。
 何を書こうとしたのかわからない。「唯一」ということばが、印象に残る。 

嵯峨信之全詩集
クリエーター情報なし
思潮社


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