「嵯峨信之全詩集/時刻表(1975)」を読む(3-12)
23 小さな位置
死よりも忘れられることが怖い、という「意味」だと思う。ここでは「怖しい」は「定義」されていない。「忘れられる」ということが定義されている。「怖しい」は「忘れられる」ということを感情に刻み込むためのことばのようである。
「感情に」と思わず書いてしまうのは、二行目が「それは……だからだ」という「理由(論理)」を声明する「構文」でできているからである。
何か「感情」というのものが置き去りにされている感じがする。「感情」のことを書いているのに、「感情」は遠ざけられ、「論理」でことばが動いている。嵯峨の「抒情詩」には、そういう性質があると思う。
「死のなかにもいなくなる」の「なかにも」が、「理詰め」という印象を引き起こす。
24 *(太陽と言葉との間に)
ここには「論理」が不思議な形で動いている。
「太陽と言葉の間に」「梯子を立てかける」、そして「登る」。そのとき、「ぼく」は太陽に近づくはずである。太陽に近づくことは「夜」になることではない。「真昼」のままだ。太陽の近くに「夜」があるというのは、とても奇妙だ。
「論理」になっていない。
だが、ほんとうにそうか。
「梯子を登る」とき、そこに「時間」が経過していく。普通、時間は朝から昼へ、昼から夜へと動いていく。太陽が出ていても、太陽は沈む。そして「夜」になる。「登る」という動詞が「時間」をつくりだし、「時間」が「夜」をつくる。「太陽に近づいていく」ということを無視すれば、そういう「論理」がなりたつ。
また、太陽がある宇宙空間。それは基本的に「暗い」、つまり「夜」だ。光はそこにあるが、周辺は「暗い」。空気(散り)が太陽の光を乱反射させないから「青空」はそこにはない。月のように「暗闇」のなかに存在する太陽というものを、私たちは「知っている」。太陽のまわりに「夜」が存在することを知っている。
だから、「夜を探す」ということばに、それほど違和感がない。
私たちは(私だけかもしれないが)、「論理」的に考えるようであって、そうではない。「知っていること(覚えていること)」にあわせて、「論理」をねじまげてしまう。「覚えていること/知っていること」とことばが重なる部分があると、それを「論理的」と思い込んでしまう。
頭/脳というのは、ご都合主義なのだ。自分の都合のいいように考えてしまう、考えたことを「論理」にしてしまうのが頭/脳というものなのだろう。
そういう「論理」が「科学的」ではなく、どこかねじれている、そして「感情」に働きかけてくるとき、それを私たちは「抒情」と呼ぶのかもしれない。
このあと、詩は、
「死」は「死」そのものというよりも、「生」の根源的なあり方というものの「比喩」かもしれない。ひとは生まれて、生きて、死ぬ。その「過程」全体の秘密が詩の「ことば」ということか。
23 小さな位置
誰にも忘れられることは怖しい
それは死のなかにもいなくなることだからだ
死よりも忘れられることが怖い、という「意味」だと思う。ここでは「怖しい」は「定義」されていない。「忘れられる」ということが定義されている。「怖しい」は「忘れられる」ということを感情に刻み込むためのことばのようである。
「感情に」と思わず書いてしまうのは、二行目が「それは……だからだ」という「理由(論理)」を声明する「構文」でできているからである。
何か「感情」というのものが置き去りにされている感じがする。「感情」のことを書いているのに、「感情」は遠ざけられ、「論理」でことばが動いている。嵯峨の「抒情詩」には、そういう性質があると思う。
「死のなかにもいなくなる」の「なかにも」が、「理詰め」という印象を引き起こす。
24 *(太陽と言葉との間に)
太陽と言葉との間に
ぼくは硝子の梯子を立てかける
どこまでもそれを登つていつてぼくは夜を探すのだ
ここには「論理」が不思議な形で動いている。
「太陽と言葉の間に」「梯子を立てかける」、そして「登る」。そのとき、「ぼく」は太陽に近づくはずである。太陽に近づくことは「夜」になることではない。「真昼」のままだ。太陽の近くに「夜」があるというのは、とても奇妙だ。
「論理」になっていない。
だが、ほんとうにそうか。
「梯子を登る」とき、そこに「時間」が経過していく。普通、時間は朝から昼へ、昼から夜へと動いていく。太陽が出ていても、太陽は沈む。そして「夜」になる。「登る」という動詞が「時間」をつくりだし、「時間」が「夜」をつくる。「太陽に近づいていく」ということを無視すれば、そういう「論理」がなりたつ。
また、太陽がある宇宙空間。それは基本的に「暗い」、つまり「夜」だ。光はそこにあるが、周辺は「暗い」。空気(散り)が太陽の光を乱反射させないから「青空」はそこにはない。月のように「暗闇」のなかに存在する太陽というものを、私たちは「知っている」。太陽のまわりに「夜」が存在することを知っている。
だから、「夜を探す」ということばに、それほど違和感がない。
私たちは(私だけかもしれないが)、「論理」的に考えるようであって、そうではない。「知っていること(覚えていること)」にあわせて、「論理」をねじまげてしまう。「覚えていること/知っていること」とことばが重なる部分があると、それを「論理的」と思い込んでしまう。
頭/脳というのは、ご都合主義なのだ。自分の都合のいいように考えてしまう、考えたことを「論理」にしてしまうのが頭/脳というものなのだろう。
そういう「論理」が「科学的」ではなく、どこかねじれている、そして「感情」に働きかけてくるとき、それを私たちは「抒情」と呼ぶのかもしれない。
このあと、詩は、
もし暗黒がものの始めなら
ぼくはそこから死を手に持つて降りてくるだろう
「死」は「死」そのものというよりも、「生」の根源的なあり方というものの「比喩」かもしれない。ひとは生まれて、生きて、死ぬ。その「過程」全体の秘密が詩の「ことば」ということか。
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