法橋太郎『永遠の塔』(思潮社、2017年02月25日発行)
法橋太郎『永遠の塔』は1行が20字で書かれた散文詩である。こういうことは「外形」の問題であって、詩とは関係がない、という見方があるかもしれない。しかし、私はそうは考えない。
1行20字は昔の原稿用紙の感覚である。言い換えると「手書き」の感覚である。
私はワープロで書いている。1行が40字の設定である。自然に文章が長くなる。1行20字という「枠」がなくなったせいではなく、手書きからワープロに変わったことが影響しているかもしれないが、原稿用紙ではなくなったということの方が大きく影響していると思う。見渡せる文字(ことば)の量が違う。ひとは、「肉体」でことばを書く。そのとき「目」が果している役割は大きい。
巻頭の「風の記憶」の一連目。短いことばがつづく。しかし、「短い」という印象ではなく、「端切れがよい」という感じだ。リズムに乗せられる。ためしに1行40字にしてみる。
どうだろう。ちょっと読みづらい。目が折り返すまでに切断が多すぎて、つまずく感じになる。もっとも、こういうことは「個人差」があって、一般論にはしにくいことがらなのだが。だから、「批評」にはならないのだが。
あ、何を書こうとしていたのか。
法橋の詩を読みながら、私は「手書きの感覚」を思い出したのである。「原稿用紙」を見渡しながら手で文字を書いていく感覚を思い出した。ことばと手の感覚、ことばと肉体の感覚は、昔はいまとは違っていた。
70年代は、手書きだった。原稿用紙だった。80年代のいつごろからだろうか。ワープロにかわった。そのころから、ことばは変わったと思う。詩も変わったと思う。ことばのなかに「肉体」の感じが薄れてきた。「固体感」というのか、単語のひとつひとつが「肉体/孤立した存在」という感じが薄れてきた。このことばは誰それのもの、という感じが薄れてきた。70年代までは、ことばが「個人的な肉体」だった。その時代のことばの感覚を思い出すのである。手で(肉体で)、ことばをつかまえ、ことばをひとつひとつ組み立てていく、その手の感じを思い出させると言い換えてもいい。目で、右を見て左を見て、上からも下からも眺めて、全体の組み立てを確認する「肉体」を感じると言い換えてもいい。
別のことばで言いなおすと。
ことばと向き合っている法橋の「肉体」が見える。「個人」が見える。法橋には会ったことがないから、「肉体」が見えるというのは変な言い方になるのだが、この「肉体」というのは不思議な安心感でもある。「概念」がかってに動いているというのではなく、「肉体」がきちんとそこにあるという確かさ。いっしょに生きている感じ。
それは、こういう抽象的なことばが動いている部分でも同じである。
「記憶の蝶」というのは「記憶している蝶」(思い出の蝶)と読むこともできるが、「記憶という名の蝶」とも読める。私は「記憶という名の蝶」、つまり「比喩」と読むのだが、それは「比喩」の方が、それにつづく「忘れられたものの滅び」という抽象になじみやすいからである。抽象を加速させるからである。
で、この「抽象」というのは「肉体」の対極にあるものだが、1行20字の「原稿用紙(手書きのことば)」の感覚のなかでは、不思議に「肉体的」であり、リアルに迫ってくる。「記憶」が「蝶」になって死んでいく姿が見えてくる。その死んでいく蝶を見ている法橋の肉体(視線)が見えてくる。ことば(抽象)と拮抗している「肉体」が同時に見える。
「活字(鉛の活字)」というのも、「原稿用紙」時代、「手書き」時代の美しさを思い出させる。いまの印刷には「活字の肉体」が完全に抜け落ちている。手触りがない。印刷そのものが「ざらざら」ではなく、「すべすべ」。
「すべすべ」(つるつる)にならないようにしている「肉体」の抵抗が見えるといえばいいのかもしれない。
これが、とても気持ちがいい。
こんな感想ではなく、もっと「ことばの意味」に触れるべきなのかもしれないが、「意味」について書くよりも、「手書きの肉体感覚」の確かさを感じたと言いたいのである。「意味」とか「思想」とかは、まあ、他の詩人たちの「批評」にまかせたい。
法橋太郎『永遠の塔』は1行が20字で書かれた散文詩である。こういうことは「外形」の問題であって、詩とは関係がない、という見方があるかもしれない。しかし、私はそうは考えない。
1行20字は昔の原稿用紙の感覚である。言い換えると「手書き」の感覚である。
私はワープロで書いている。1行が40字の設定である。自然に文章が長くなる。1行20字という「枠」がなくなったせいではなく、手書きからワープロに変わったことが影響しているかもしれないが、原稿用紙ではなくなったということの方が大きく影響していると思う。見渡せる文字(ことば)の量が違う。ひとは、「肉体」でことばを書く。そのとき「目」が果している役割は大きい。
爪を切る。インクに滲んだ爪を切る。死ぬま
で爪を切りつづける。昏い過去と断ち切られ
た太い糸。孤独という病。疲れた足取りで石
段を登った。頂上の草原にたどり着いた。汗
が滴り落ちてきた。おれも民草のひとりに違
いない。
巻頭の「風の記憶」の一連目。短いことばがつづく。しかし、「短い」という印象ではなく、「端切れがよい」という感じだ。リズムに乗せられる。ためしに1行40字にしてみる。
爪を切る。インクに滲んだ爪を切る。死ぬまで爪を切りつづける。昏い過去と断ち切られた太い糸。孤独という病。疲れた足取りで石段を登った。頂上の草原にたどり着いた。汗が滴り落ちてきた。おれも民草のひとりに違いない。
どうだろう。ちょっと読みづらい。目が折り返すまでに切断が多すぎて、つまずく感じになる。もっとも、こういうことは「個人差」があって、一般論にはしにくいことがらなのだが。だから、「批評」にはならないのだが。
あ、何を書こうとしていたのか。
法橋の詩を読みながら、私は「手書きの感覚」を思い出したのである。「原稿用紙」を見渡しながら手で文字を書いていく感覚を思い出した。ことばと手の感覚、ことばと肉体の感覚は、昔はいまとは違っていた。
70年代は、手書きだった。原稿用紙だった。80年代のいつごろからだろうか。ワープロにかわった。そのころから、ことばは変わったと思う。詩も変わったと思う。ことばのなかに「肉体」の感じが薄れてきた。「固体感」というのか、単語のひとつひとつが「肉体/孤立した存在」という感じが薄れてきた。このことばは誰それのもの、という感じが薄れてきた。70年代までは、ことばが「個人的な肉体」だった。その時代のことばの感覚を思い出すのである。手で(肉体で)、ことばをつかまえ、ことばをひとつひとつ組み立てていく、その手の感じを思い出させると言い換えてもいい。目で、右を見て左を見て、上からも下からも眺めて、全体の組み立てを確認する「肉体」を感じると言い換えてもいい。
別のことばで言いなおすと。
ことばと向き合っている法橋の「肉体」が見える。「個人」が見える。法橋には会ったことがないから、「肉体」が見えるというのは変な言い方になるのだが、この「肉体」というのは不思議な安心感でもある。「概念」がかってに動いているというのではなく、「肉体」がきちんとそこにあるという確かさ。いっしょに生きている感じ。
インクの臭いに記憶の蝶が群がった。忘れら
れたものの滅びは静かに行使されるが、それ
に逆らうおれの意志より浮かばせる活字たち。
缺けた鉛の活字たちが水中から重力に逆らっ
て浮かびあがった。湖の水面に言葉が記され
た。
それは、こういう抽象的なことばが動いている部分でも同じである。
「記憶の蝶」というのは「記憶している蝶」(思い出の蝶)と読むこともできるが、「記憶という名の蝶」とも読める。私は「記憶という名の蝶」、つまり「比喩」と読むのだが、それは「比喩」の方が、それにつづく「忘れられたものの滅び」という抽象になじみやすいからである。抽象を加速させるからである。
で、この「抽象」というのは「肉体」の対極にあるものだが、1行20字の「原稿用紙(手書きのことば)」の感覚のなかでは、不思議に「肉体的」であり、リアルに迫ってくる。「記憶」が「蝶」になって死んでいく姿が見えてくる。その死んでいく蝶を見ている法橋の肉体(視線)が見えてくる。ことば(抽象)と拮抗している「肉体」が同時に見える。
「活字(鉛の活字)」というのも、「原稿用紙」時代、「手書き」時代の美しさを思い出させる。いまの印刷には「活字の肉体」が完全に抜け落ちている。手触りがない。印刷そのものが「ざらざら」ではなく、「すべすべ」。
「すべすべ」(つるつる)にならないようにしている「肉体」の抵抗が見えるといえばいいのかもしれない。
これが、とても気持ちがいい。
こんな感想ではなく、もっと「ことばの意味」に触れるべきなのかもしれないが、「意味」について書くよりも、「手書きの肉体感覚」の確かさを感じたと言いたいのである。「意味」とか「思想」とかは、まあ、他の詩人たちの「批評」にまかせたい。
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