「嵯峨信之全詩集/時刻表(1975)」を読む(3-14)(2017年05月14日)
27 *(どこからその坂を)
魅力的な一行から始まる。坂が幾つもあり、そのうちのどの坂を登りはじめたのかと自問しているのか。あるいは坂と意識しはじめたのは、坂のどの地点からだろうかと自問しているのか。
頂上に立っているのだから、いくつもある登り道の、どの道からと考えるのが自然なのかもしれない。「どこ」も、それを問題にしている。しかし、私は後者と読んだ。どの道にしろ、それを坂と認識するかしないかということの方が重い。
「どこ」は「いつ」とも通じる。こういう「意味」の「ずれ」に詩がある。私たちは「ことば」の意味を辞書通りにはつかわないことがある。辞書通りではなくても、意味が通じる。
たとえばマラソンの選手に「どこで勝利を意識しましたか」と聞く。「〇〇選手を追い抜いたときですね」。「どこ」と問われて「とき」と答える。特に不自然というわけではない。
で、「どこから」を「とき」と考えていると……。
「そのとき」と「とき」が出てくる。「そのとき」から坂を登りはじめたのだとわかる。「いつだつたか」と「いつ」も出てくる。
このとき嵯峨は「二人の部屋」という「場」を思っている。「とき」(いつ)と「場」(どこ)は固く結びついている。
だからこそ、
と、「場」が最後に登場する。「そのとき」に戻らなかった。「とき」は過ぎ去るものかもしれないが、ひとは過ぎ去るにまかせず「戻る」(やりなおす)ということがある。「戻る」と「そのとき」はいつでも「いま」になる。「いま」を捨てたのだ。それを思い出している。
28 イヴの唄
「いない」といいながら「ぼくのなか」で「飼われている」。
「ぼくのなかにいるイヴ」と「ぼくの外にいるイヴ」が違ってしまったということか。「火薬」と「藁」はいったん火がつけば燃え上がり、消えてしまう、危険な存在ということか。
いまはこういう比喩が成り立たないかもしれない。
ということは、詩の批判をしたことになるのか。そうでもあるし、そうでもない。この時代には、こういう比喩が成り立っていた。すくなくとも嵯峨は「藁」というものを知っている時代の詩人である。正直に「時代」を呼吸していたということが、いま、その比喩が成り立たないところからわかる。
(嵯峨の詩の感想から逸脱死することになるかもしれないが、これは重要なことだと思う。競馬馬くらいしか見ない時代に、野生の馬を見たみたいに詩を書く人がいるが、こういう感覚を私は信じていない。読んできたことを、それがたとえ「想像力の世界」にしろ比喩、抽象としてつかうことに私は疑問を感じている。)
27 *(どこからその坂を)
どこからその坂を登りはじめたのか
魅力的な一行から始まる。坂が幾つもあり、そのうちのどの坂を登りはじめたのかと自問しているのか。あるいは坂と意識しはじめたのは、坂のどの地点からだろうかと自問しているのか。
暮がたのしずかな頂上だつた
遠くにきらめいている一つの星があつた
頂上に立っているのだから、いくつもある登り道の、どの道からと考えるのが自然なのかもしれない。「どこ」も、それを問題にしている。しかし、私は後者と読んだ。どの道にしろ、それを坂と認識するかしないかということの方が重い。
「どこ」は「いつ」とも通じる。こういう「意味」の「ずれ」に詩がある。私たちは「ことば」の意味を辞書通りにはつかわないことがある。辞書通りではなくても、意味が通じる。
たとえばマラソンの選手に「どこで勝利を意識しましたか」と聞く。「〇〇選手を追い抜いたときですね」。「どこ」と問われて「とき」と答える。特に不自然というわけではない。
で、「どこから」を「とき」と考えていると……。
そのときふつと女のことを忘れようと思つた
いつだつたかもうそれからかなり日が経つている
長雨にふりこめられてふたりは一歩も外へ出なかつたことがある
「そのとき」と「とき」が出てくる。「そのとき」から坂を登りはじめたのだとわかる。「いつだつたか」と「いつ」も出てくる。
このとき嵯峨は「二人の部屋」という「場」を思っている。「とき」(いつ)と「場」(どこ)は固く結びついている。
だからこそ、
それつきりぼくはもう家に戻らなかつた
と、「場」が最後に登場する。「そのとき」に戻らなかった。「とき」は過ぎ去るものかもしれないが、ひとは過ぎ去るにまかせず「戻る」(やりなおす)ということがある。「戻る」と「そのとき」はいつでも「いま」になる。「いま」を捨てたのだ。それを思い出している。
28 イヴの唄
イヴは何処にもいない
ぼくのなかで火薬と藁で飼われている
「いない」といいながら「ぼくのなか」で「飼われている」。
「ぼくのなかにいるイヴ」と「ぼくの外にいるイヴ」が違ってしまったということか。「火薬」と「藁」はいったん火がつけば燃え上がり、消えてしまう、危険な存在ということか。
いまはこういう比喩が成り立たないかもしれない。
ということは、詩の批判をしたことになるのか。そうでもあるし、そうでもない。この時代には、こういう比喩が成り立っていた。すくなくとも嵯峨は「藁」というものを知っている時代の詩人である。正直に「時代」を呼吸していたということが、いま、その比喩が成り立たないところからわかる。
(嵯峨の詩の感想から逸脱死することになるかもしれないが、これは重要なことだと思う。競馬馬くらいしか見ない時代に、野生の馬を見たみたいに詩を書く人がいるが、こういう感覚を私は信じていない。読んできたことを、それがたとえ「想像力の世界」にしろ比喩、抽象としてつかうことに私は疑問を感じている。)
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