詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

井筒俊彦『老子道徳経』

2017-05-29 09:34:58 | その他(音楽、小説etc)
井筒俊彦『老子道徳経』(英文著作翻訳コレクション・古勝隆一訳)(慶応義塾大学出版会、2017年04月28日発行)

 私は老子を読んだことがない。井筒俊彦『老子道徳経』を通してはじめて触れることになる。そのせいか、老子を読んでいるのか、井筒を読んでいるのか、ちょっとわからなくなるところがある。たぶん、井筒を読んでいるのだろう。そうか、老子の「道」は井筒の「無分節」とつながっていくのか、と思いながら読んだ。言い換えると、あ、老子を読まないことには井筒の考えがわからないぞ、と反省したということでもある。「道」は「分節」をうながす「正しさ/おおもと」のようなものだ、と感じた。

 第一章、

道可道 非常道     道の道とすべきは、常の道に非ず。

 書物全体が、この書き出しの一行の「解説」になっている。

「道」(という言葉)によって示されうるような道は、<道>ではない。

 原文の「道」ということばが、括弧付きの「道」、括弧なしの道、山括弧付きの<道>と三種類に訳出されている。その三つはどう違うか。これを私が言いなおしてもしようがない。この本を読んでもらうのが一番わかりやすい。(古勝のあとがきによれば、井筒が表記をつかいわけている、意識しているので、それを再現しているということである。)
 ただ、そう書いてしまうと「感想」にはならないので、私の読み取ったことを少し付け加えておく。

 第三十五章の、

用之不可既     之を用いれば既(つ)くすべからず。

それを用いてみると、人はそれが無尽蔵であることに気づくのだ。

 「それ」とは「道」のことだが、「用いる」ことによって「無尽蔵」であると気づくと定義されるときのそれは山括弧付きの<道>である。ただし、それは存在するのではなく、「用いる」ということと同時に「分節されてくる」(現前して来る/顕現して来る)ものである。
 「用いる」という動詞といっしょにしか存在し得ないもの。
 「用いる」は「つかう」、あるいは「動かす」。
 ひとは自分で「つかえる」ものを通してしか、世界を「分節」できない。「つかう」ことが「分節」することである。「名詞」ではなく、「動詞」こそが、世界を「分節」する、「動詞」の「ことば」を中心にことばをとらえなおす--ということを、私は井筒の著作から学んだが、そのことをここで再確認した。
 「我田引水」になってしまうが、あるいは「誤読」の押し売りになってしまうが、この部分に、私はとても励まされた。よし、私は私の「誤読」をつづけていこう、という気持ちになった。

 第六章、

谷神不死     谷神(こくしん)は死せず。

<谷の霊>は、不滅である。

 私の名前には「谷」という文字がある。その「谷」を老子は「道」と結びつけて考えている。こういうところにも、「我田引水」的に、何か、感動してしまう。「谷」には「水」がつきもの、「谷内」というのは「谷の、水のあるところ(湿地)」というような意味を含んでいるが、そう考えると急に老子が「近しい」ものに感じてきたりする。私は「水」に非常に惹かれるが、それもゆえあってのことなのだ、とそれこそ「我田引水」的に妄想するのである。

 第二十四章

企者不立     企(つまだ)つ者は立たず。

爪先立ちする人は、しっかりと立つことができない。

 「企画する」ということは<道>の考えからすると、「爪先立ちする」ということなのか、とふいに気づかされたりする。<道>は「企画」とは断絶したところに存在する、と知らされる。
 これを「用いる(つかう)」というのは、では、どういうことだ。
 これは、考えなければならない。
 「用いる」と思ったときは、もう<道>ではなく、「用いる」と意識しないときに<道>が世界を分節する、ということか。

 あれこれ断片的に考えるだけしかできない。



 私は英語が読めない。井筒の書いた英語のテキストを読んだわけではないのだが、訳文で一か所、疑問に思ったことがある。
 第三十二章の、「注」の訳文(104 ページ)

(3)「それ」とは「樸」によって表象される、絶対的な未分節の精神のことである。

 ここに出て来る「未分節」に私は驚いた。ほんとうに「未分節」なのか。
 第三十四章の「注」の訳文( 109ページ)には、

(4)すなわち、その絶対的無分節もしくは、無差別の状態に関して。

 と、ある。
 「未分節」ではなく「無分節」。
 「無分節」には、私はなじんでいる。というか、井筒は「無分節」ということばをつかっていると思う。読み落としているのかもしれないが、私は井筒の著作で「未分節」を読んだことがない。
 私は実は、井筒の「無分節」を「誤読」して「未分節」ととらえ直しているのだが(このことは「詩はどこにあるか」で何度か書いた)、井筒は「未分節」「無分節」をつかいわけているのか。
 井筒の日本語の著作のどこに「未分節」があるのだろう。それはどれくらいの割合で著作に出て来るのだろう。
 英語表記はどうなっているのだろうか。それが気になった。古勝は井筒の英語の使い分けに応じて「絶対的な未分節」「絶対的無分節」と翻訳をわけているのか。それを知りたいと思った。
 小さな違いだが、「存在はことばである」と考えるなら、この違いは「大きい」。
 第二十五章の注(84ページ)には、

(1)別解 「かたちはないが完全な<何か>」、もしくは「まだまったく分節されていない<何か>」。

 と「無分節」という「名詞(形)」ではない表現もある。「まだ」ということばに従うなら、これは「未分節」という名詞に置き換えてもかまわないと思うが(私は井筒の「無分節」を、「分節がない」ではなく「まだ分節されていない」と「誤読」して「未分節」と読んでいるのだが)、この部分の英語表記と、先に取り上げた英語表記の部分はどう違うのだろうか。
 とても気になる。 

老子道徳経 (井筒俊彦英文著作翻訳コレクション)
クリエーター情報なし
慶應義塾大学出版会
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「嵯峨信之全詩集/時刻表(1975)」を読む(3-29)

2017-05-29 08:08:21 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
「嵯峨信之全詩集/時刻表(1975)」を読む(3-29)(2017年05月29日)

57 *(つぶやきが)

マッチを擦ればすぐにも火がつきそうな一秒二秒の沈黙

 最後の一行。「一秒二秒」という「間」の認識の仕方が濃密。マッチを擦り、火がつくときの音が聞こえてくる。「沈黙」を際立たせる。

58 針不動

輝く水の皺を
影が奪い

 「輝く」と「影」の対比がおもしろい。
 この前の連に「闇にふかく」ということばがある。「闇」のなかで「輝く」水の皺であるなら「闇」が奪っていきそうである。それを「影」が奪っていくという。
 このとき「影」とは何だろうか。水の皺(波紋)の光っていない部分、光によって生まれてくる「影」のことだろうか。皺の頂点が輝く、皺の腹が影になる。腹は「内部」。それが表面を奪っていく。のみこんでいく。あるいは内部にのみこまれていく。
 「水」の呼吸が聞こえ、が「いのち」に見えてくる。
 一方、「影」には「光」という意味もある。「月影」「星影」。そうであるなら、水の皺の光が薄くどこまでも広がっていくようにもとらえることができる。



嵯峨信之全詩集
クリエーター情報なし
思潮社


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