31 *(走しつて 走しつて)
嵯峨はときどき見慣れない「表記」をつかう。「走つて」が普通だと思うが「し」を付け加えている。晩年は「魂」も「魂しい」と書いていた。「し」という文字が好きなのかもしれない。漢字にぶらさがっている。はみ出しながら、なおもついていく。のみこまれるのでもなく、おちこぼれるのでもなく。
この書き出しも、何かそういう感じ。
「遠のく」と嘆きながらも、あきらめない。
そういう行をつづけたあと、
「走しりつづけた」ではなく「走りつづけた」。誤植なのか、それとも書き分けているのか。判断がむずかしい。
「走しる」が、ふいに、苦しい姿に見えてくる。
32 *(ぼくは多くの深みで愛されるだろう)
この「深み」は、「--ぼくを抱いて」の「裸麦の束を抱くように 両手を大きくひらいてぼくを深く抱く」の「深く」を思い出させる。嵯峨にとって愛とは「広さ」よりも「深さ」の感覚である。「多くの人」というよりも「一人の人」へ意識が集中している。
「深さ」「深み」は「深める」なのだ。
とはいいながら、詩の最後の三行。
イメージが、ふいに遠くへ飛ぶ。「深み」が内部からはじけ、ぱっと広がる。
こういう「矛盾」のようなものが、きっと詩を支えている。人間を支えていると行った方がいいのかもしれない。
走しつて 走しつて 走しつても
一つの砦はさらに遠のくのだ
嵯峨はときどき見慣れない「表記」をつかう。「走つて」が普通だと思うが「し」を付け加えている。晩年は「魂」も「魂しい」と書いていた。「し」という文字が好きなのかもしれない。漢字にぶらさがっている。はみ出しながら、なおもついていく。のみこまれるのでもなく、おちこぼれるのでもなく。
この書き出しも、何かそういう感じ。
「遠のく」と嘆きながらも、あきらめない。
誰にそのことを告げたいか
どんな言葉でそれを伝えることができるか
そういう行をつづけたあと、
一生ただむやみに走りつづけたぼくを
呆うけたぼくの姿を誰がじつとさいごに見ているか
「走しりつづけた」ではなく「走りつづけた」。誤植なのか、それとも書き分けているのか。判断がむずかしい。
「走しる」が、ふいに、苦しい姿に見えてくる。
32 *(ぼくは多くの深みで愛されるだろう)
ぼくは多くの深みで愛されるだろう
この「深み」は、「--ぼくを抱いて」の「裸麦の束を抱くように 両手を大きくひらいてぼくを深く抱く」の「深く」を思い出させる。嵯峨にとって愛とは「広さ」よりも「深さ」の感覚である。「多くの人」というよりも「一人の人」へ意識が集中している。
「深さ」「深み」は「深める」なのだ。
とはいいながら、詩の最後の三行。
その時ぼくはおもう
砂あらしが空を暗くとざしている沙漠のはてを
大風にあふられている天幕のなかへかけこむ一匹の白い小犬を
イメージが、ふいに遠くへ飛ぶ。「深み」が内部からはじけ、ぱっと広がる。
こういう「矛盾」のようなものが、きっと詩を支えている。人間を支えていると行った方がいいのかもしれない。
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