詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

憲法改正(その5)

2017-05-15 17:39:36 | 自民党憲法改正草案を読む
憲法改正(その5)
               自民党憲法改正草案を読む/番外76(情報の読み方)

 新聞を読む時間がなかったので「時差」のある感想になるのだが。
 2017年05月10日読売新聞(西部版・14版)の1面に、

改憲 自衛隊規定を優先/首相憲法審提出に意欲

 という見出しの記事がある。そのなかの、つぎの部分。見出しにはなっていないが、とても気になる。

 連舫氏は、首相が8日の衆院予算委で自身のインタビューが掲載された「読売新聞を熟読してほしい」と述べたことを「説明責任の放棄」と攻め、発言の撤回を求めた。首相は「憲法審査会で闊達な議論をいただきたいから、インタビューに党総裁として答えている」と反論した。

 この議論がその後どう展開したのか、読売新聞の記事ではわからないが、安倍を追いつめられなかった連舫を初めとする国会議員の「対話能力」のなさにあきれかえる。
 問題点はいくつもある。安倍は「インタビューに党総裁として答えている」と言っているが読売新聞は「首相インタビュー」であって「自民党総裁インタビュー」ではない。もし「首相インタビュー」ではなくて「自民党総裁インタビュー」だったのだとしたら、その「間違い(齟齬)」について安倍はどう対処したのだろうか。読売新聞は「自民党総裁インタビュー」だったと「訂正」を出したのだろうか。(新聞をざっと読んだが、経緯はわからなかった。)
 それ以上に問題なのは、新聞のインタビューに答えるということと、国会で議員の質問に答えるというのことは、まったく別問題である。それを安倍は理解していないし、連舫も理解していない。
 連舫は安倍の答弁に対して、どう反論したのだろうか。
 「国会議員は、選挙で投票してくれた国民を代表して質問している。国会議員が国会で質問したならば、それに答えるのが首相の責任である」と明確に指摘したのだろうか。「説明責任の放棄」というような抽象的なことばではなく、連舫に投票してくれた何万人の有権者の代表として質問している、民進党に投票してくれた何万人の有権者の代表として質問している、ときちんと迫るべきである。連舫にかわって、連舫に投票してくれた有権者に、安倍は「読売新聞を読め」と言うのか。読んで納得したかどうか、どうやって確認するのか、ということろまで安倍から「回答」を引き出すべきである。安倍は、そんなことをするはずがない。だから連舫は質問するのだ、と迫るべきなのだ。
 また、質問するときは、首相は「読売新聞を熟読してほしい」と8日に述べたが、この考えにいまもかわりはないか、というところから議論を始めるべきである。「かわりはない」という返事が返ってきたら、「かわりがない」というのは「読売新聞を熟読してほしい」ということか、念押しをする。首相が「そうだ」と答えたら、「そうだ、という抽象的な言い方ではなく、はっきり成文化して言いなおしてほしい」と求めるべきである。同じことばを何度でも引き出して、問題にすべきである。
 安倍は「同じ質問を繰り返すな」というかもしれない。そういうときは、「同じ質問をするのは、安倍がいつもうそをつくからだ。PTT絶対反対と言っておきながらPTTに賛成した。PTT反対と一度も言ったことはない、と言ったじゃないか。読売新聞を熟読してほしいと言ったことは一度もないと主張しないという保障はない。都合が悪くなれば言ったことを否定する。だから、質問する」と言いなおせばいい。
 この一点だけをテーマにして、首相が国家で国民の代表である議員に対して直接答えようとしないという問題だけを攻めればいい。首相が民主主義を否定している。そのことだけを質問に立つ野党議員全員が問題にすべきである。
 「一度言えばわかる」ではなく、「私に投票してくれた何万人の一人一人に私は首相を批判していることを知ってもらう必要がある。民意主主義によって選ばれた人間なのだから、その責任を果たす必要がある。だから、何度でも質問するのだ」と迫ればいい。「自分のことばで質問し、自分の耳で聞いたことを有権者に伝える責任がある。その責任を安倍はかわってくれない。だから、質問する。」
 安倍の「読売新聞を熟読してほしい」がどんなに問題であるか、もっともっと知らせるべきである。
 この問題は、

改憲 自衛隊規定を優先

 ということよりも重要な問題である。言い換えると憲法改正よりも重要な問題である。
 国会議員の質問に答えない、「自分の考えは読売新聞に書いてある」という安倍の答弁を一度許せば、今後の憲法改正論議はすべて読売新聞経由になる。首相は答えない。読売新聞に書いてあるから、それを読め、で押し切られてしまう。連舫とのやりとりを読むと、実際に、押し切られてしまっている。
 民主主義は死んだ。民主主義を、連舫は殺してしまった。安倍の主張を追及するチャンスだったのに、それができなかった。
 だいたい「読む」というのは「聞く(質問する)」ということは、根本的に違う。「聞く」というのは、一つ一つの問題点を深めていくことである。対話によって、ひとりだけで考えていたときにはわからなかったものを見つけ出し、考えを変えていくということの出発点が「聞く(質問する)」なのである。
 多数の意見をぶつけ合う。さまざまな疑問をぶつけあう。それが民主主義なのである。 

 「読め」は「聞くな」というのに等しい。安倍は「私は私の考えを変えない。私の考えをよく読んで、おまえたちが考え方を改めればいい。私の考えにあわせろ」と言っているのである。
 独裁である。
 独裁者が、独裁で憲法を変えようとしている。さらに独裁を強めるためである。

 新聞をゆっくり読む時間がなくて、どこに書いてあるのかわからなかったが、「そもそもは基本的という意味である、と閣議決定した」というニュースも聞いた。
 これは「ばかばかしい笑い話」のようだが、ここに「独裁」がくっきりとあらわれている。安倍が「そもそもは基本的という意味である」と発言し、批判された。それに反論するために、「そもそも」の「意味」を閣議決定した。
 これは、今後あらゆることに「適用」されるだろう。
 自衛隊が国外に侵攻して戦争が始まったとしても、それは自衛権の発動である。なぜなら、そのまま放置しておいては日本が攻撃されるからだ。攻撃される恐れがあるのに放置するのは自衛権の放棄である、という具合に「閣議決定」されてしまう。
 こんなふうに安倍批判を書くこと、あるいは連舫を書くことは「テロ予備罪にあたる、」と「閣議決定」することもできる。安倍批判をすることは、日本の政治状況を不安定にする。テロが起こりやすくなる。安倍批判をしてはならない、という具合に変化していく。

 安倍の「読売新聞を熟読してほしい」発言に、国会が「騒然とした」というニュースをネットで読んだときは、あ、国会解散、総選挙だと思ったが、日本はぜんぜん騒然としていない。国会の騒然を「社会現象」に拡大する方法(手段)を野党が見つけ出せずに、安倍の言いなりになっている。
 完全に独裁社会が、着実に築かれている。独裁社会になってしまっていると感じ、私は怖くなった。そして、怖いから、書いている。書かずにはいられない。
 憲法学者たちは、もっとこの問題をとりあげてほしい。あるゆる場所で発言してほしい。安倍の憲法改正草案(?)には「教育の無償化」が含まれているが、「教育の無償化」を利用しながら「学問の自由の制限」が始まる。安倍批判をする憲法学者は追放されるということは、すぐに始まる。(もう始まっているかもしれない。)
 「思想の自由」は、もうこの国にはない。
 国会でさえ、国会議員が質問を拒絶されている。

 「そもそもは基本的という意味である」という「閣議決定」という「独裁」に対して、ことばにかかわるひとは発言すべきだろう。ことばの「意味」は政府が決めるものではない。独裁者が「意味」を決め、国民がその「意味」にしたがってことばをつかうということになれば、思想は死ぬ。
 「閣議決定」をただ笑うだけではなく、批判しよう。批判しても、安倍は気にしないかもしれないが、批判のことばを積み重ねることでしか、独裁と戦う方法はない。

詩人が読み解く自民党憲法案の大事なポイント 日本国憲法/自民党憲法改正案 全文掲載
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「嵯峨信之全詩集/時刻表(1975)」を読む(3-15)

2017-05-15 00:00:00 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
「嵯峨信之全詩集/時刻表(1975)」を読む(3-15)(2017年05月15日)

南ケ丘詩抄

29 *(--ぼくを抱いて)

--ぼくを抱いて
といえば
裸麦の束を抱くように 両手を大きくひらいてぼくを深く抱く

 「イヴの唄」の「藁」と同じように「裸麦」は嵯峨にとっては「現実」だった。「現実」だから、そのあとの「深く抱く」の「深く」が強い。嵯峨には「裸麦」を「抱いた」記憶がある。そのとき「深い」ものを感じたのだ。麦の熟れた匂いの深さのようなものを。だから、この「深く」は次の行で「豊熟」ということばにかわる。

その豊熟と荒廃のなかに
ぼくは死ぬ
そして蘇がえる
たえず昨日に

 何かを抱いたときに、逆に何かに抱き締められ、その内部の「深さ」を感じてしまう。「深さ」におぼれしてまう。「豊熟」におぼれてしまうのだ。
 矛盾しているかもしれない。でも、その矛盾のなかに何かがある。
 「豊熟」と「死(ぬ)」。これは「一粒の麦死なずば……」ということばを連想させる。「死ぬ」ことが「よみがえる」こと。
 最後の「昨日」がおもしろい。
 あした蘇るのではなく、「昨日」に蘇る。こういうことは「文法的」には正しくない。「文法的」に正しくないから、「感覚的」には正しい。「間違える」瞬間にしかとらえることのできない「正しい」ものがある。

30 * (ぼくには夕方ばかりあつた)

ぼくには夕方ばかりあつた

 というようなことは、「現実」にはありえない。朝から昼、夕方、夜へと時間は動いていく。「夕方ばかり」では時間が流れない。これは、「夕方」しか思い出せない、ということなのか。
 そうなのかもしれないけれど、それだけではない。
 二行目は、こうつづいている。

完全な一日はなかつた

 「夕方ばかりがある」というのは「不完全」と意識されている。この「不完全」は、しかし、「完全」よりも美しい。「不完全」と「破れ目」は違うかもしれないが、「完全ではない」という自覚が「完全」を超えるものを感じさせる。
 では、完全を超えるものって何?

いつものような夕方
春雷がすばらしいカーヴで灯のはいつた高層ビルを越えていつた

 「現実」だね。まだ「ことば」になっていない「現実」、瞬間的に姿をあらわしてしまった現実。
 これを詩と呼ぶ。

嵯峨信之全詩集
クリエーター情報なし
思潮社

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