「嵯峨信之全詩集/時刻表(1975)」を読む(3-11)
21 *(過ぎ去った場所をたえず歩くものよ)
一行目は、現実には不可能なことである。過ぎ去った場所(通ってきた場所)を歩くことは現実にはできない。想像のなかでしかできない。
この「想像」を嵯峨は最終行で「ぼくのなか」ということばで言い直している。
この「ぼくのなか」は、少し形を変えると、この作品の様々なところに補うことができる。
「名」は恋人の名か。「ほんとうの名は帰つて来ない」とは「ぼくのなかの名」ではなく、つまり「想像」の恋人ではなく、「現実の」恋人は帰っては来ないということだろう。
「ぼくのなかの」川岸を誰も通らない。恋人の名を呼ぶ「ぼく」だけが何度も行きつ戻りつしたのだ。恋人の名を呼びながら「ぼく」が何度もゆきつもどりつしたのだ。
「現実の川岸」ではなく「ぼくのなかの川岸」であるから、それは、言い換えると、そういう詩を(ことばを)何度も書き直した、ということになるだろう。
22 離れ島
最後の「思つている」の「対象」、「思われているもの」は「離れ島」であるが、それは「離れ島」というよりも、詩、である。
「離れ島」であると同時に「石牢」であり、「閉じ込められた不在者」である。「閉じ込められた不在者(不在者を閉じ込める)」というのはあえないことだが、そのありえないことがかたく結びついて結晶している。それが、詩である。ことばでだけ生み出すことができる「現実」を詩という。
そして詩は、「思う」というよりも、「信じる」ものかもしれない。「言い伝えを信じて」の「信じて」には嵯峨の思想が強くあらわれている。
21 *(過ぎ去った場所をたえず歩くものよ)
過ぎ去った場所をたえず歩くものよ
名の上に名を重ねても
ほんとうの名は帰つて来ない
昨日は川岸を誰も通らなかつた
ただぼくのなかで一つの名がゆきつもどりつした
一行目は、現実には不可能なことである。過ぎ去った場所(通ってきた場所)を歩くことは現実にはできない。想像のなかでしかできない。
この「想像」を嵯峨は最終行で「ぼくのなか」ということばで言い直している。
この「ぼくのなか」は、少し形を変えると、この作品の様々なところに補うことができる。
過ぎ去った場所をたえず歩く「ぼくのなかの」ものよ
名の上に「ぼくのなかの」名を重ねても
ほんとうの名は帰つて来ない
昨日は「ぼくのなかの」川岸を誰も通らなかつた
ただぼくのなかで一つの名がゆきつもどりつした
「名」は恋人の名か。「ほんとうの名は帰つて来ない」とは「ぼくのなかの名」ではなく、つまり「想像」の恋人ではなく、「現実の」恋人は帰っては来ないということだろう。
「ぼくのなかの」川岸を誰も通らない。恋人の名を呼ぶ「ぼく」だけが何度も行きつ戻りつしたのだ。恋人の名を呼びながら「ぼく」が何度もゆきつもどりつしたのだ。
「現実の川岸」ではなく「ぼくのなかの川岸」であるから、それは、言い換えると、そういう詩を(ことばを)何度も書き直した、ということになるだろう。
22 離れ島
その船が
どこにも着くところがなかつたら
離れ島の石牢の前に着くだろう
そしてそのまま何十年も繋ぎ放しになるだろう
戸口は
不在者を閉じこめて誰かを待つているだろう
そういう言い伝えを信じて
港の人たちは見たこともない離れ島をいまだに思つている
最後の「思つている」の「対象」、「思われているもの」は「離れ島」であるが、それは「離れ島」というよりも、詩、である。
「離れ島」であると同時に「石牢」であり、「閉じ込められた不在者」である。「閉じ込められた不在者(不在者を閉じ込める)」というのはあえないことだが、そのありえないことがかたく結びついて結晶している。それが、詩である。ことばでだけ生み出すことができる「現実」を詩という。
そして詩は、「思う」というよりも、「信じる」ものかもしれない。「言い伝えを信じて」の「信じて」には嵯峨の思想が強くあらわれている。
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