「嵯峨信之全詩集/時刻表(1975)」を読む(3-13)
25 玄猿
「玄猿」とは何だろう。子猿を失った母親の猿を描いている、と読んでみる。
「冷えきつた」ということばが「子猿」の「冷えきつた」亡骸を連想させる。「神は手の先きから逃げさつた」は「いのち」が手の先から遠ざかっていく、という印象を与える。「冷えきる」「逃げさる」という「動詞」が呼びあってイメージを作る。
「かけめぐる」という動詞が二回出てくる。「逃げさつた」いのちはつかまえられない。呼び戻せない。知っていても、「かけめぐる」のである。「本能」が「かけめぐらせる」のである。
正しい本能のまま動いても、実現できないことに出合ったとき、そこに「悲哀」が生まれる。
26 *(死ぬことは)
何度も繰り返される「死」、「死ぬ」という動詞。これをこの詩では最終行で別のことばで言い直している。
「死」は「自己埋葬」である。自分で自分を葬る。その「イマージユのなかを子供のぼくが駆けぬけていく」というのは、よく読み直さないといけないかもしれない。
「自己埋葬」するときの「自己」というのは「いま/ここ」にいる「自己」だろう。そうすると、当然、その「自己」は「子供」ではない。また「幼い子供の自己(自己の中の幼い部分)」を「埋葬する」というのとも違うだろう。「幼い自己」を埋葬するとき、その「自己」は死んでいるのだから「駆けぬけていく」という「動詞」はふさわしくない。「死」は「動かない」。
私はこの行を「いまの自己を埋葬する」、そうすると「その埋葬したいまの自己/死んだ自己」のなかから「幼い子供の自己」がよみがえり、駆けだした、と読む。「再生」である。生まれ変わりである。
嵯峨が書く「死」のなかには「消滅」ではなく、「再生」のイメージがある。「再生」した「いのち」が動いているから、感覚を刺戟してくるのだろう。
25 玄猿
「玄猿」とは何だろう。子猿を失った母親の猿を描いている、と読んでみる。
玄猿は
冷え切つた悲哀のなかにいる
その脳は
光線の屈折だけを反射する
神は手の先きから逃げさつたのだ
「冷えきつた」ということばが「子猿」の「冷えきつた」亡骸を連想させる。「神は手の先きから逃げさつた」は「いのち」が手の先から遠ざかっていく、という印象を与える。「冷えきる」「逃げさる」という「動詞」が呼びあってイメージを作る。
失つたやさしい本能が
小さな脳のなかを掠める
忽ち狂つたようにかけめぐる
停止したものに気づいたらしい
なくなつたものを求めて
猿は金網をゆすつてかけめぐる
「かけめぐる」という動詞が二回出てくる。「逃げさつた」いのちはつかまえられない。呼び戻せない。知っていても、「かけめぐる」のである。「本能」が「かけめぐらせる」のである。
正しい本能のまま動いても、実現できないことに出合ったとき、そこに「悲哀」が生まれる。
26 *(死ぬことは)
死ぬことは
他の日に考えよう
何度も繰り返される「死」、「死ぬ」という動詞。これをこの詩では最終行で別のことばで言い直している。
そして自己埋葬のイマージユのなかを子供のぼくが駆けぬけていく
「死」は「自己埋葬」である。自分で自分を葬る。その「イマージユのなかを子供のぼくが駆けぬけていく」というのは、よく読み直さないといけないかもしれない。
「自己埋葬」するときの「自己」というのは「いま/ここ」にいる「自己」だろう。そうすると、当然、その「自己」は「子供」ではない。また「幼い子供の自己(自己の中の幼い部分)」を「埋葬する」というのとも違うだろう。「幼い自己」を埋葬するとき、その「自己」は死んでいるのだから「駆けぬけていく」という「動詞」はふさわしくない。「死」は「動かない」。
私はこの行を「いまの自己を埋葬する」、そうすると「その埋葬したいまの自己/死んだ自己」のなかから「幼い子供の自己」がよみがえり、駆けだした、と読む。「再生」である。生まれ変わりである。
嵯峨が書く「死」のなかには「消滅」ではなく、「再生」のイメージがある。「再生」した「いのち」が動いているから、感覚を刺戟してくるのだろう。
嵯峨信之全詩集 | |
クリエーター情報なし | |
思潮社 |