詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

「嵯峨信之全詩集/時刻表(1975)」を読む(3-13)

2017-05-13 00:00:00 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
「嵯峨信之全詩集/時刻表(1975)」を読む(3-13)

25 玄猿

 「玄猿」とは何だろう。子猿を失った母親の猿を描いている、と読んでみる。

玄猿は
冷え切つた悲哀のなかにいる
その脳は
光線の屈折だけを反射する
神は手の先きから逃げさつたのだ

 「冷えきつた」ということばが「子猿」の「冷えきつた」亡骸を連想させる。「神は手の先きから逃げさつた」は「いのち」が手の先から遠ざかっていく、という印象を与える。「冷えきる」「逃げさる」という「動詞」が呼びあってイメージを作る。

失つたやさしい本能が
小さな脳のなかを掠める
忽ち狂つたようにかけめぐる
停止したものに気づいたらしい
なくなつたものを求めて
猿は金網をゆすつてかけめぐる

 「かけめぐる」という動詞が二回出てくる。「逃げさつた」いのちはつかまえられない。呼び戻せない。知っていても、「かけめぐる」のである。「本能」が「かけめぐらせる」のである。
 正しい本能のまま動いても、実現できないことに出合ったとき、そこに「悲哀」が生まれる。

26 *(死ぬことは)

死ぬことは
他の日に考えよう

 何度も繰り返される「死」、「死ぬ」という動詞。これをこの詩では最終行で別のことばで言い直している。

そして自己埋葬のイマージユのなかを子供のぼくが駆けぬけていく

 「死」は「自己埋葬」である。自分で自分を葬る。その「イマージユのなかを子供のぼくが駆けぬけていく」というのは、よく読み直さないといけないかもしれない。
 「自己埋葬」するときの「自己」というのは「いま/ここ」にいる「自己」だろう。そうすると、当然、その「自己」は「子供」ではない。また「幼い子供の自己(自己の中の幼い部分)」を「埋葬する」というのとも違うだろう。「幼い自己」を埋葬するとき、その「自己」は死んでいるのだから「駆けぬけていく」という「動詞」はふさわしくない。「死」は「動かない」。
 私はこの行を「いまの自己を埋葬する」、そうすると「その埋葬したいまの自己/死んだ自己」のなかから「幼い子供の自己」がよみがえり、駆けだした、と読む。「再生」である。生まれ変わりである。
 嵯峨が書く「死」のなかには「消滅」ではなく、「再生」のイメージがある。「再生」した「いのち」が動いているから、感覚を刺戟してくるのだろう。

嵯峨信之全詩集
クリエーター情報なし
思潮社


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