詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

さとう三千魚『浜辺にて』

2017-05-24 20:52:30 | 詩集
さとう三千魚『浜辺にて』(らんか社、2017年05月25日発行)

 さとう三千魚『浜辺にて』は六百ページを超す詩集。英語のタイトル、日本語の副題、そして横書きというスタイル。読み通す自信がない。目が悪いので、読んでいる内に疲れてしまうかもしれない。そうすると、感想もぼんやりしてきそうだ。乱暴を承知で、ぱっとことばが動いた瞬間の感想を書いておく。22ページの作品。

sunny 晴れた日 日当たりのよい
2013年7月2日

うすい
空色のなかに

白い雲がうかんでる
こと

うすい空色のなかを
燕たちが複雑な線をひいて飛ぶ

こと

 この詩に出会った瞬間、さとうは「こと」を書いているのだと思った。「こと」はなくても「意味」は通じる。「こと」があっても「意味」はかわらないように思える。それなのに、さとうは「こと」ということばを書く。「こと」が書きたいのだ。しかし、「こと」というのは誰もが日常的につかうが、どう説明していいかわからないことばだ。
 あるいは逆に、説明しなくてもわかることばだ。
 「こと」ということばにふれて、私は何かを思う。思い出す。しかし、それはあまりにもなじみすぎていて、説明のしようがない。
 だから、違う風に読んでみる。
 「こと」をほかのことばで言いなおすと、どうなるか。
 この詩には、まだ後半があるのだが、「こと」は言いなおされていない。ほかのことばといっしょに繰り返されている。だから、「こと」を言いなおすとどうなるかは、別の詩から探すしかない。

name 名 名前
2013年7月7日

花にも
名があった

ヒトがつけた名があった

思い浮かぶ花が
ある

 この詩に出てくる「ある」という動詞が「こと」に似ていると思う。「こと」は名詞だが、それを動詞にすると「ある」ということになるのだと思った。

うすい
空色のなかに

白い雲がうかんでる
それがある

うすい空色のなかを
燕たちが複雑な線をひいて飛ぶ

それがある

 「雲が浮かんでる」「燕が線を引いて飛ぶ」。主語と述語で、ことばは完結している。それを「ある」と言いなおす必要はない。けれど、「それがある」とさとうは言いなおす。それは「再認識」なのだ。言い直しながら、「それがある」を「こと」と、さらに言いなおす。
 「こと」は「ある」という動詞を、名詞で言いなおしたもの。再認識なのだ。「ある」も再認識だが、「こと」はそれをさらに再認識するもの。
 世界に触れ、世界のあり方を言いなおす。言いなおすという作業を証明するのが「こと」ということばなのだ。

 と、ここまで書いて、私の書きたかったことが、私にもわかる。

 何かを「言いなおす」。それが詩なのだ。どう言いなおすか、とても難しい。たいていの詩は、「意味ありげ」に言いなおす。「比喩」とか「象徴」とか、哲学的用語とかをつかって、私はこんなふうに世界を見ていると「独自性」をアピールする。
 さとうは違う。
 いつもつかっていることばで言いなおす。それは言いなおすというよりも、単なる繰り返しに近いかもしれない。こどもが大人のことばを聞き、それを繰り返しながら世界の姿を肉体に覚え込ませる作業に似ている。

 さとうは繰り返すことで、ことばを鍛えている。
 どの詩にも繰り返しが多いが、繰り返すたびに、最初のことばが少しずつ確かになっていく。そのことばしかない、という感じになる。
 多くの詩人のように、比喩、象徴、哲学的用語で言いなおすのではなく、言いなおさずに繰り返すことで、そのことばが持っているものを確かなものにするという感じ。

 世界は、「ある」。
 その「ある」をただ「ある」というままにしておくのではなく、私たちに関係がある「こと」にしていく。再認識することで、認識を高めていく。確かなものにする。それが「ことば」の仕事なのだろう。さとうは、それを新しいことばをつくりだすのではなく、なじみのあることばを繰り返すことで確かなものにしようとしていると感じた。
浜辺にて
クリエーター情報なし
らんか社
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「嵯峨信之全詩集/時刻表(1975)」を読む(3-24)

2017-05-24 08:24:46 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
「嵯峨信之全詩集/時刻表(1975)」を読む(3-24)(2017年05月24日)

47 時刻表

早鐘を打つような心臓の鼓動である
それもまもなく櫓の音のように間遠うになつて消えてしまう

 この「対句」は私には奇妙に見える。「心臓の鼓動」は自分の内部から聞こえる。一方「櫓の音」は外部から聞こえる。「心臓の鼓動」が外部に出て、「櫓の音」にかわって、やがて遠くなって消えていく。
 こういう経験を私はしたことがない。
 これはひとつづきのことではなく、二つのことかもしれない。「鼓動」を聞く。その一方、「櫓の音」を聞く。それが遠ざかっていくので、鼓動も呼応して静まる。嵯峨は、船が遠ざかるとき「櫓の音」も遠ざかるのを聞いたことがあるのだ。
 理由はわからないが、鼓動を高鳴らせて、つまり「どきどき」しながら、それを見ていたのだろう。遠ざかっていくことが、嵯峨に安心を与えたのかもしれない。

48 *(駱駝に云つた)

 針の穴を通り抜ける駱駝が、通り抜け抜けられずに死んでしまった。

まるで使い古した絨毯のように妙に嵩張つていて
生命だけがぬけ出してしまつたらしい

 この二行の比喩が強烈だ。
 絨毯は、駱駝が砂漠の生き物、砂漠はペルシャ(あるいはアラビア)、 ペルシャは絨毯という連想によるのかもしれない。絨毯がペルシャ、砂漠、駱駝というつながりを呼び起こす。この連想は、実際に駱駝、砂漠、ペルシャを知らないからこそ、「文学」として生まれる。ペルシャ人はこんなことは思わないだろう。だからこそ、というのは奇妙な言い方になるが、強い印象がある。空想が空想に働きかけてくる力、想像力の本質のようなものを感じる。
 そのあとの「生命だけがぬけ出してしまつた」とどうだろう。
 「文学」を超えるリアリティーがある。「絨毯」が想像力が加速した結果生まれたことばであるのに対して、何かもっと違ったものがある。破壊力がある。
 「生命がぬけ出してしまつた」ら、そこにあるのは何だろう。「脱け殻」なのかもしれないが、私は「魂しい」を感じる。嵯峨のつけくわえている「しい」という文字のような、常識を逸脱した何か、嵯峨だけが見てしまった何かを。

嵯峨信之全詩集
クリエーター情報なし
思潮社

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