さとう三千魚『浜辺にて』(らんか社、2017年05月25日発行)
さとう三千魚『浜辺にて』は六百ページを超す詩集。英語のタイトル、日本語の副題、そして横書きというスタイル。読み通す自信がない。目が悪いので、読んでいる内に疲れてしまうかもしれない。そうすると、感想もぼんやりしてきそうだ。乱暴を承知で、ぱっとことばが動いた瞬間の感想を書いておく。22ページの作品。
この詩に出会った瞬間、さとうは「こと」を書いているのだと思った。「こと」はなくても「意味」は通じる。「こと」があっても「意味」はかわらないように思える。それなのに、さとうは「こと」ということばを書く。「こと」が書きたいのだ。しかし、「こと」というのは誰もが日常的につかうが、どう説明していいかわからないことばだ。
あるいは逆に、説明しなくてもわかることばだ。
「こと」ということばにふれて、私は何かを思う。思い出す。しかし、それはあまりにもなじみすぎていて、説明のしようがない。
だから、違う風に読んでみる。
「こと」をほかのことばで言いなおすと、どうなるか。
この詩には、まだ後半があるのだが、「こと」は言いなおされていない。ほかのことばといっしょに繰り返されている。だから、「こと」を言いなおすとどうなるかは、別の詩から探すしかない。
この詩に出てくる「ある」という動詞が「こと」に似ていると思う。「こと」は名詞だが、それを動詞にすると「ある」ということになるのだと思った。
「雲が浮かんでる」「燕が線を引いて飛ぶ」。主語と述語で、ことばは完結している。それを「ある」と言いなおす必要はない。けれど、「それがある」とさとうは言いなおす。それは「再認識」なのだ。言い直しながら、「それがある」を「こと」と、さらに言いなおす。
「こと」は「ある」という動詞を、名詞で言いなおしたもの。再認識なのだ。「ある」も再認識だが、「こと」はそれをさらに再認識するもの。
世界に触れ、世界のあり方を言いなおす。言いなおすという作業を証明するのが「こと」ということばなのだ。
と、ここまで書いて、私の書きたかったことが、私にもわかる。
何かを「言いなおす」。それが詩なのだ。どう言いなおすか、とても難しい。たいていの詩は、「意味ありげ」に言いなおす。「比喩」とか「象徴」とか、哲学的用語とかをつかって、私はこんなふうに世界を見ていると「独自性」をアピールする。
さとうは違う。
いつもつかっていることばで言いなおす。それは言いなおすというよりも、単なる繰り返しに近いかもしれない。こどもが大人のことばを聞き、それを繰り返しながら世界の姿を肉体に覚え込ませる作業に似ている。
さとうは繰り返すことで、ことばを鍛えている。
どの詩にも繰り返しが多いが、繰り返すたびに、最初のことばが少しずつ確かになっていく。そのことばしかない、という感じになる。
多くの詩人のように、比喩、象徴、哲学的用語で言いなおすのではなく、言いなおさずに繰り返すことで、そのことばが持っているものを確かなものにするという感じ。
世界は、「ある」。
その「ある」をただ「ある」というままにしておくのではなく、私たちに関係がある「こと」にしていく。再認識することで、認識を高めていく。確かなものにする。それが「ことば」の仕事なのだろう。さとうは、それを新しいことばをつくりだすのではなく、なじみのあることばを繰り返すことで確かなものにしようとしていると感じた。
さとう三千魚『浜辺にて』は六百ページを超す詩集。英語のタイトル、日本語の副題、そして横書きというスタイル。読み通す自信がない。目が悪いので、読んでいる内に疲れてしまうかもしれない。そうすると、感想もぼんやりしてきそうだ。乱暴を承知で、ぱっとことばが動いた瞬間の感想を書いておく。22ページの作品。
sunny 晴れた日 日当たりのよい
2013年7月2日
うすい
空色のなかに
白い雲がうかんでる
こと
うすい空色のなかを
燕たちが複雑な線をひいて飛ぶ
こと
この詩に出会った瞬間、さとうは「こと」を書いているのだと思った。「こと」はなくても「意味」は通じる。「こと」があっても「意味」はかわらないように思える。それなのに、さとうは「こと」ということばを書く。「こと」が書きたいのだ。しかし、「こと」というのは誰もが日常的につかうが、どう説明していいかわからないことばだ。
あるいは逆に、説明しなくてもわかることばだ。
「こと」ということばにふれて、私は何かを思う。思い出す。しかし、それはあまりにもなじみすぎていて、説明のしようがない。
だから、違う風に読んでみる。
「こと」をほかのことばで言いなおすと、どうなるか。
この詩には、まだ後半があるのだが、「こと」は言いなおされていない。ほかのことばといっしょに繰り返されている。だから、「こと」を言いなおすとどうなるかは、別の詩から探すしかない。
name 名 名前
2013年7月7日
花にも
名があった
ヒトがつけた名があった
思い浮かぶ花が
ある
この詩に出てくる「ある」という動詞が「こと」に似ていると思う。「こと」は名詞だが、それを動詞にすると「ある」ということになるのだと思った。
うすい
空色のなかに
白い雲がうかんでる
それがある
うすい空色のなかを
燕たちが複雑な線をひいて飛ぶ
それがある
「雲が浮かんでる」「燕が線を引いて飛ぶ」。主語と述語で、ことばは完結している。それを「ある」と言いなおす必要はない。けれど、「それがある」とさとうは言いなおす。それは「再認識」なのだ。言い直しながら、「それがある」を「こと」と、さらに言いなおす。
「こと」は「ある」という動詞を、名詞で言いなおしたもの。再認識なのだ。「ある」も再認識だが、「こと」はそれをさらに再認識するもの。
世界に触れ、世界のあり方を言いなおす。言いなおすという作業を証明するのが「こと」ということばなのだ。
と、ここまで書いて、私の書きたかったことが、私にもわかる。
何かを「言いなおす」。それが詩なのだ。どう言いなおすか、とても難しい。たいていの詩は、「意味ありげ」に言いなおす。「比喩」とか「象徴」とか、哲学的用語とかをつかって、私はこんなふうに世界を見ていると「独自性」をアピールする。
さとうは違う。
いつもつかっていることばで言いなおす。それは言いなおすというよりも、単なる繰り返しに近いかもしれない。こどもが大人のことばを聞き、それを繰り返しながら世界の姿を肉体に覚え込ませる作業に似ている。
さとうは繰り返すことで、ことばを鍛えている。
どの詩にも繰り返しが多いが、繰り返すたびに、最初のことばが少しずつ確かになっていく。そのことばしかない、という感じになる。
多くの詩人のように、比喩、象徴、哲学的用語で言いなおすのではなく、言いなおさずに繰り返すことで、そのことばが持っているものを確かなものにするという感じ。
世界は、「ある」。
その「ある」をただ「ある」というままにしておくのではなく、私たちに関係がある「こと」にしていく。再認識することで、認識を高めていく。確かなものにする。それが「ことば」の仕事なのだろう。さとうは、それを新しいことばをつくりだすのではなく、なじみのあることばを繰り返すことで確かなものにしようとしていると感じた。
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