詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

「嵯峨信之全詩集/時刻表(1975)」を読む(3-23)

2017-05-23 06:59:04 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
「嵯峨信之全詩集/時刻表(1975)」を読む(3-23)(2017年05月23日)

45 *(ぼくの「時」は)

ぼくの「時」は
一インチの隙間もなく黒い那智石で敷きつめられている

 なぜ「インチ」なのだろう。「那智石」なのだろう。私にわかることばは「黒い」だけである。
 「黒い」は、このあと「地下」「判決(書)」「捺印」「論告」という具合に言い換えられていく。
 言い換えるときの「主観」の動きが「意味」である。

46 *(蛇が魂しいの中に住みついた)

蛇が魂しいの中に住みついた
光りが眩しい
動くたびに見えない黒い部分ができる

 「動くたび」の「動く」の主語は何だろうか。蛇か。
 私は「光り」だと思った。
 眩しい光が目を射る。強い光のために、逆に何も見えなくなる。光が去ると目の中が真っ暗になる。あるいは、黒い点のようなものが残る。
 あの「黒い点」は何だろうか。
 そのことを思うとき、「魂しい」「光り」という嵯峨の表記が気になる。
 「しい」や「り」は、強い光にいぬかれた目が一瞬だけ見る「黒い点」のようなものではないだろうか。何かの「痕跡」。
 痕跡は、どこに残るのか。自分自身の「肉体」の内部である。
 何か強いものに出会うたびに、自分の内部に「黒い痕跡」ができる、と「誤読」してみる。
 「蛇が魂しいの中に住みついた」は、文章の主語は「蛇」だが、意味の主語は「魂しい」であり、「蛇が魂しいの中に住みついた」は「魂しいが、その内部に蛇を招き入れ住まわせた」であり、また「魂しいが蛇の中に住みついた」かもしれない。
 「誤読」していくときだけ見えてくるものもある。「誤読」しながら発見するのは、嵯峨の隠れた意識か、それとも私の欲望か。


嵯峨信之全詩集
クリエーター情報なし
思潮社


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