詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

自民党憲法改正草案を読む/番外73(情報の読み方)

2017-05-04 14:30:45 | 自民党憲法改正草案を読む
憲法改正(その2)
               自民党憲法改正草案を読む/番外73(情報の読み方)

 2017年05月03日読売新聞(西部版・14版)は安倍の憲法改正構想(スケジュール)を掲載した。改正のポイントは2点。「自衛隊の明記」と「教育の無償化」。これは一種の「飴と鞭」。反対しにくいものを抱き合わせることで、ほんとうにやりたいことを押しつける。
 「教育の無償化」はいいことだが、そのとき「学問の自由」はどう保障されるのか。「教育の無償化」が実施されている小中学校では「学問の保障」は保障されていない。無償の教科書には「検定」があり、検定に沿って教科書が書き換えられている。教科書の検定は高校でもおこなわれている。それが「大学」にまで拡大される恐れがある。
 文学(芸術)は経済の発展に寄与する部分が少ない、廃止してしまえ、ということも起きるだろう。つまり「教育費無償化」とはいいながら「文学(芸術)」を「教育」から切り捨てるということも起きる。経済の発展に寄与しない、つまり「教育」に値する分野ではないのだから「無償化」の対象外ということになる。
 「哲学」というのは「批判」から始まっているから、これあたりが最初に「廃止」されるだろう。「批判」を許さない「教育」がおこなわれ、それだけが「無償化」の対象になるだろう。
 こういうことを、どう防ぐか、というところからも憲法改正問題をみつめないといけない。
 だいたい「教育の無償化」は憲法に盛り込まなければならないことなのか。法律で十分なのではないのか。
 憲法は権力の暴走を許さないためのもの。もし憲法に教育問題を盛り込むなら、「学問の自由は、これを保障する」という項目だろう。「教育の無償化」はたしかに権力に対して「金を払え」という義務を発生させるが、禁止事項とはならない。
 憲法とは何か、という問題からすべてを点検しないといけない。憲法はなんのために存在するのか、なぜ必要なのかという議論と組み合わせて一項目ずつ点検する必要がある。

 読売新聞は2017年05月04日から「憲法考」という連載を始めた。一回目は自民党の中谷元がインタビューに答えている。

自衛隊「合憲」明確に

 見出しが、その主張をとっている。これは安倍の方針に沿ったもの。
 見出しに取っていない部分に情報が隠されている。

 --ほかに議論を深めたいテーマは何か。
 緊急事態条項だ。

 即座に、そう答えている。
 安倍は語ったのか語らなかったのか、きのうの新聞ではよくわからない。少なくとも「見出し」を読む限りは主張していない。そして中谷のインタビューでも「見出し」を読む限りは「緊急事態条項」は出て来ない。見出ししか読まないひとは、自民党が「緊急事態条項」を引き下げたのかと思ってしまうだろう。見出しにとってないから重要な問題ではないと思ってしまうだろう。
 ここ「情報の罠」がある。
 「緊急事態条項」を提案せず、「自衛隊の明文化」だけなら、いまの現実と大差ないではないか。「緊急事態条項」がなくて「教育の無償化」が明文化されるなら、改正した方がいいじゃないか。
 そう錯覚する人が出てくる。
 報道機関の仕事は、隠されている「事実」、権力にとっての「不都合な事実」を明確に言語化することである。

詩人が読み解く自民党憲法案の大事なポイント 日本国憲法/自民党憲法改正案 全文掲載
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江代充「降雨」

2017-05-04 10:46:31 | 詩(雑誌・同人誌)
江代充「降雨」(「森羅」4、2017年05月09日発行)

 江代充「降雨」は独特の文体。「降雨」に限らないが。

粗い土の地にいる二羽のスズメが
雨の降りている地所のうえで白濁し
代わる代わるその位置を置き換えるように
ひくく跳ねながら
せまい土の範囲を先へ先へと移動している

 「ことばの経済学」から言うと、とても不経済な「文体」である。
 説明しすぎるとめんどうになるので端折って書くが、「土の地」というかわった言い方が最初に出てくる。二行目で「地所」と言いなおされ、五行目で「土(の範囲)」と言いなおされている。
 さらにスズメの動きは「代わる代わる」「位置を置き換える」「移動している」と言いなおされている。
 引用を省略して書いてしまうと、雨が振った日にスズメが二羽、ミミズをつついているという描写なのだが、それだけのことを、ことばを無駄につかって、不経済に書く。どれだけ不経済に書くことができるか、が江代の詩である。
 経済ついでに金をつかって言うと、たとえば1789円の買い物をする。金の払い方はいろいろ。一万円札を出してお釣りをもらう。千円札を二枚出してお釣りをもらう。二千円と89円を出してお釣りをもらう。千円札と五百円玉、百円玉二個出してお釣りをもらう。お釣りがないように千円札、五百円玉、百円玉二個、十円玉八個、一円玉九個ということも可能だし、百円玉七個、五十円玉と十円玉三個、五円玉一個と一円玉四個もある。江代は、その組み合わせをいろいろに変化して見せてくれている。それが、まあ、独特なのである。
 描写の「因数分解」と言いなおせば、数学的になるかもしれない。一般的に数学というのは「答え」をいかに合理的に、美しく、単純に出すことが目的。だから、そこでも「経済学」が生きているのだが、江代は「経済学」に背を向けて、「経済的」にならないように書いている。二次方程式つかえば簡単な問題を「鶴亀算」でやるようなものである。二次方程式を覚えてしまった頭には「鶴亀算」の説明をするのが、とてもむずかしい。小学生に「鶴亀算」を教えようとすると、面倒くさくなって「二次方程式をつかえば簡単なのに」と思うことがあるでしょ?
 そういう感じに似ている。江代の詩を読んで感じるまだるっこしさと、あ、そうか、たしかに最初はこう考えるんだったなあ、と「肉体」の奥が刺戟される感じ。「鶴亀算」には「鶴亀算」の美しさがあるなあ。
 ある意味では、ベケットの「重力の時間」に似ている。ことばがブラックホールにのみこまれていくように、崩壊しながら消えていく。消えながら目に見えない光を発し続ける。消えていくことが、光があったということを思い出させる。

せまい土の範囲を先へ先へと移動している
なかで時折りお辞儀をみせる一羽については
まるい頭部と尾とのあいだがひどく短くみえ
ふたつの眼の先に動くくちばしが
ところを変え
いつもどこかの方向を指しているものとみえた

 「移動している/なかで」という行またぎが、この詩では、とても重要だ。「お辞儀」という古びた、素直な比喩を使いながら、「みせる」という動詞を経由して、「みえる」という動詞が動き出す。
 スズメを描写しながら、スズメを「見る」江代の「肉体」の素直さを描く。
 描写とは客観的に見えても、どうしても「主体」が入り込む。それを主体をできるかぎり隠しながら、つまり単純にしながらもぐりこませる。
 この「肉体」の動きによって、そういうスズメを見たことがある、ということが、スズメとしてではなく、自分の「肉体」の古い感覚として思い出されてくる。スズメを思い出すのではなく、スズメを見たことを思い出してしまう。
 「スズメを見たことがある」とは書かずに、「スズメを見たことがある」と思い出させる。読者の「体験」にすり替えてしまう。
 読むというのは筆者の体験を自分の体験にすり替えて読むことだが、江代は、何といえばいいのか自分の体験を読者の体験にすり替えさせるようにして書く。「主観的」にではなく「客観的」にというか、「第三者」の体験にすり替えられる形で書くというべきなのか。
 こういうことろも、非常に不経済。

 不経済のものは、何か、なつかしい。江代の「文体」になつかしいものを感じるのは、「経済効率」が高められる前の、無駄独特の強い美しさがあるからだろう。無駄をていねいにたどることができる強さがあるからだろう。

江代充詩集 (現代詩文庫)
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自民党憲法改正草案を読む/番外73

2017-05-04 09:40:56 | 自民党憲法改正草案を読む
2017年05月04日(水曜日)

憲法改正
               自民党憲法改正草案を読む/番外73(情報の読み方)

 2017年05月03日読売新聞(西部版・14版)の二面「ニュースQ+」コーナーに「諸外国の憲法改正は?」というやりとりが載っている。「日本よりハードル低く」という見出しとともに、「国立国会図書館調べ」データが掲載されている。それによると、

ドイツ  60回
フランス 27回
イタリア 15回
中国    9回
韓国    9回
米国    6回
豪州    5回
日本    0回

 「主な改正内容」も掲げてはいるが、これは疑問の残る「情報」の典型的な例だ。
 各国の「改正」は、どういう「範囲」で「改正」されたのか。あるいは「修正」されたのか。それがわからない。何よりも、その「改正」がどのような方法でおこなわれたのか、さっぱりわからない。
 自民党の憲法改正草案を例に考えてみると、「情報操作」であることが明白になる。
 自民党の改正草案は膨大な量の改正を含んでいる。ほとんどの条文で「改正」がおこなわれている。なかには、第十三条のように、目を凝らさないと「改正」かどうか、わかりにくいものもある。

現行憲法
第十三条
すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。
自民党改正案
第十三条
全て国民は、人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公益及び公の秩序に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大限に尊重されなければならない。

 「個人」が「人」に、「公共の福祉」が「公益及び公の秩序」に、「最大の尊重を必要とする」が「最大限に尊重されなければならない」に変更される。どれも、どこが違うのか、文言を変えることでどう変化が起きるのか、即座にはわかりかねる。
 「個人」が「人」に変わる部分など、「一字削除」なので変更に気づかない人もいるかもしれない。
 この変更を、どう数えるか。「1回」なのか「3回」なのか。「1回3か所」なのか。外国の場合は、どう数えているか。それを具体的に指摘、紹介しない限りは、正確な比較の情報を提供したことにならない。資料を「国立国会図書館調べ」と「客観的資料」であるかのように装って利用している。「調べ方」「数字の出し方」が問題なのに、それについては触れていない。
 もし、一か所ずつの「改正」を「改正回数」と数えるなら、自民党改正草案の「回数」は何回と数えればいいのか。「1回」ではないだろう。
 日本はまだ「1回」も改正していない。だから「1回くらいなら」改正してもいい、という印象を引き起こす。
 情報の奥に、何が仕組まれているのか、考える必要がある。

(第13条の比較については、「詩人が読み解く自民党憲法草案の大事なポイント」を参照してください。)
詩人が読み解く自民党憲法案の大事なポイント 日本国憲法/自民党憲法改正案 全文掲載
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「嵯峨信之全詩集/時刻表(1975)」を読む(3-4)

2017-05-04 00:00:00 | 『嵯峨信之全詩集』を読む

7 *(昨日とはどういうことだろう)

昨日とはどういうことだろう
忘れるという領土はどこからつづいているのか
また遠ざかることで何が始まるのか

 「忘れる」という「動詞」を「領土」という空間と結びつけて考えている。「領土」は「忘れる」の比喩ということになる。「つづいているのか」は「出発点(起点)」を問うているのだが「忘れる」という「動詞」そのものが「つづいている」と読み替えることもできる。
 「忘れ/つづける」とは「出発点(起点)」をから「遠ざかる」ことでもある。
 「遠ざかる」は「忘れてしまう/終わる」ということにつながると思うが、これを「終る」ではなく「始まる」という「動詞」で語りなおしている。
 「忘れる」ということさえ「忘れる」。何を「忘れた」のかも「忘れる」。二重否定。そこから「始まる」。
 この「変化」を嵯峨は次のように言い直している。「比喩」で語っている。短い「寓話」と言えるかもしれない。

納屋いっぱい積みあげられた小麦の山
一匹の野鼠がその下に這り込んだとき
戸外では急にはげしく雨が降りだした

 「降り出した」は「降り/始めた」でもある。
 大事なのは「始める」がそこに隠れる形で反復されているということと同時に、「急に/はげしく」ということばが追加されていることかもしれない。
 「何かが始まる」のは「急に/はげしく」なのである。

8 夜雨

五月になつて
はてしない迂回が始まるだろう
ごそごそとはいあがる池の縁の銭亀
砂利をしきつめた平面のような今日の論理の上を
はげしくたたく夜の雨
街灯を消せば闇のなかに雨の矢もあわただしく消えてしまう

 「はてしない」は「つづく」でもある。それは「ごそごそ」と、つまり「遅い」感じでつづく。だから「亀」という「比喩」がつかわれるのだが、これは「強調」というもの。ほんとうの「比喩」は「ごそごそ」という、言い換えのきかない「動き」そのものだろう。「ごそごそ」はまた「徘徊」の「比喩」であり、「徘徊」は「ごそごそ」の「比喩」でもあるだろう。どこかへたどり着くのではない。だから「はてしない」。そういう具合に、ことばは互いの「意味」のなかを「比喩」のように動く。
 「砂利」と「論理」も似たような関係である。「砂利」が「論理」の「比喩」なのか、「論理」が「砂利」の「比喩」なのか。もちろん文法的には「砂利」が「論理」の「比喩」なのだが、「比喩」が動いているとき、そこには「砂利」そのものがあり、そのあとで「論理」がやってくる。「砂利」を実感しないならば、それは「比喩」になりえない。「砂利」そのものを実感することが、「比喩の意味」を実感することである。
 それは「共同」の関係にあるのだ。

 最終行は、とても美しい。
 ここにも「共同」の動きがある。街灯(光)と雨の矢、闇と雨の輝き。街灯があれば、それだけで雨が輝くわけではない。闇があって、そこに光があるとき、雨の矢が見える。「あわただしく」が非常になまなましく感じられ、それがこの風景を詩に高めているのだが、この「あわただしく」は「亀」の「ごそごそ」が書かれているからこそ印象的になる。
 「亀」は「街灯/雨/闇」の関係の「闇」をどこかで担っている。「闇」の「比喩」になっている。















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