詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

「嵯峨信之全詩集/時刻表(1975)」を読む(3-25)

2017-05-25 09:24:48 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
「嵯峨信之全詩集/時刻表(1975)」を読む(3-25)(2017年05月25日)

49 *(ぼくは荒縄でぐるぐる巻きにされ)

大きな夜の窪みに投げだされた
そこは閉じられた書物のように暗らくて重いところだ

 「窪み」には否定的な意味合いがある。「閉じられた」「暗らく」と重なる。視界が「閉じられた」世界が窪みであり、窪みの底は「暗い」。窪みは、このとき「穴(深い穴)」と同じ意味になる。
 しかし、そのあとの「重い」はどうか。
 「閉じられた」「暗い」は「重い空気」ということばとどこかでつながっている。しかし、それは「窪み」とは少し違う。
 だからこそ、そこに「書物」が割り込む。
 「窪み」と「書物」は似ていない。けれども「閉ざされた書物」「暗い書物」という言い方はある。「修飾語」が窪みと共通する。「修飾語」によって「存在」の区別が消され、「修飾語」が「本質」のように動き始める。そして「重い」ということばを導き出す。
 「窪み」が描かれているわけではない。「書物」が描かれているのでもない。「閉ざされた」「暗い」「重い」が描かれている。それがどんなふうに「閉ざされ」「暗く」「重い」のかを言うために、ほかのことばが動いている。
 「修飾語」に見えるものこそ、この詩のテーマである。

50 *(名ざしはしない)

ひとりの女を時のなかに縫いつけて
盲目の座に追いあげてしまう

 「縫いつける」と「盲目」。「縫いつける」を、動けなくする、視界を限定するということととらえ直せば「盲目」に通じるかもしれない。見えているが、すべてが見えるわけではない。一種の「盲目状態」。
 だが、それは「追いあげてしまう」の「あげる」という動詞とは通じるようには思えない。「あげる」は直前の「座」と結びついている。「座」とは「位置」のことである。「位置」と「上げる」は結びつき「上位」ということばになる。
 この「座」は、「窪み」の別のことばなのかもしれない。

 ぼく(嵯峨)は「窪み」に投げ出される、女は「座」に追い上げられる。嵯峨を「窪み」に「投げ出した(追い落した)」のは女。そうやって嵯峨を孤立させた。女を「座(高み)」に追い上げ孤立させたのは嵯峨。
 二つの詩を、そんな具合に「誤読」してみる。
 愛し合っているのに、別れ、孤立してしまう青春が見える。


嵯峨信之全詩集
クリエーター情報なし
思潮社


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