詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

石井岳龍監督「パンク侍、斬られて候」(★★★)

2018-07-01 20:38:21 | 映画
石井岳龍監督「パンク侍、斬られて候」(★★★)

監督 石井岳龍 出演 綾野剛、北川景子、東出昌、染谷将太、浅野忠信

 町田康原作、宮藤官九郎脚本。これだけで予想がつく映画。予想を裏切ることもないが、超えることはない。
 あまりにも文学的な、そしてあまりにも演劇的な。
 つまりね。「ことば」を聞いていないと、実際に何が起きているかわからない。言い換えると、「事件」はことばのなかで起きている。これを、どう肉体化するか、が問題。「芝居」にせずに「映画」にするには、どうすればいいか。
 先日見た「焼肉ドラゴン」と比較すると、「パンク侍」の方がはるかにすぐれている。いちばんの要素は、「パンク侍」はことばを聞かせているのだけれど、「意味」は聞かせていない。ことばなんて、そのときそのときの「本音」を語るだけ。そこに「ほんとう」があるとすれば「理想」とか「真実」という美しいものではなく、「欲望」。「生きたい」という欲望(生きなければならないという切実な欲望)が、瞬間瞬間にことばを変えてしまう。一貫性が内容に見えるが、そこには欲望の一貫性がある。
 で、この「欲望の一貫性」を別な形で見せるのが「肉体」。「肉体の欲望」なんて、とっても簡単にできている。「死にたくない」と「気持ちいい」を感じたい。それ以外は、みんな嘘。つまり「ことばの正義」というものだね。
 あ、少しずれた。
 この「欲望の一貫性」を別な形で見せるのが「肉体」であり、芝居は芝居小屋の中で実際に役者が動くので、そこに強みがある。どんなむちゃくちゃな飛躍があっても、舞台の上では「役者」の「肉体」は一貫して存在し続ける。「肉体」が消えてしまうことも、別な存在になってしまうこともない。
 映画は実際には「肉体」があるのではなく、映像しかない。映像は、そして「連続」していない。一貫していない。ひとりが映っているとき別のひとりが映っていないときがある。これをどうやって「実在する肉体(一貫性のある肉体)」に変えるか。
 方法としては、単純なんだけどね。アップ。でも、これって、矛盾してるんだよなあ。アップというのは「肉体の切り売り」。全体(一貫性)の否定。
 しかし、日常は見えない部分まで見せてしまうと、「あっ、こういう肉体知っている」と感じが生まれる。顔に人間は反応してしまい、「感情/意識」が動く。そうすると、「感情/意識」が「肉体」の変わりになる。「肉体」全部が見えていなのに、そして「感情/意識」だって一部に過ぎないのに、なんだか「感情」がわかった瞬間、そのひととつながった気持ちになる。「一貫性」が観客の側でつくられる。「共犯」だね。
 豊川悦司がウィンクするでしょ? すると「パチン」という効果音がはいる。ウィンクでそういう音が実際に出るわけではないけれど、聞こえた気がする。ウィンクの音を聞いてしまった綾野剛「肉体」の「意味」がわかる。観客の肉体の中に「意味」が生まれる。観客は「意味」の共犯者になる。こういうことを、うまくつかっている。あくどいんだけれど、そのアクの強いところがいいなあ。
 最後の最後、廃墟になったスラム街(?)がもう一度崩れる。唐十郎(赤テント)の芝居みたいでいいなあ。映画の最後を「芝居」でおわらせるところは、宮藤官九郎が芝居出身だからだろうなあ。
 それにしてもねえ……。町田康って、ほんとうにことばが大好きな人間なんだなあ。なんでもことばにしてしまわないと気がすまない作家なんだろうと思う。これを宮藤官九郎がていねいに拾い上げて脚本にしている。
 ストーリーとか、意味ではなく、このことばにかける情熱をしっかりと受け止めたい映画だな。
(2018年06月27日、ユナイテッドシネマキャナルシティ、スクリーン8)

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パンク侍、斬られて候 (角川文庫)
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