詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

高橋睦郎『つい昨日のこと』(23)

2018-07-31 09:03:46 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
23 ポリスは永遠

 「ポリス」とは「政治形態」。

すでにペロポンネソス戦役の時代に機能しなかった という
果たしてそうか 機能する しないとは別に いまなお健在

 「機能する」とはどういう意味か。相互に動き、その動きが合理的ということだろう。「動き/働き」が「論理的」(合理的)であるとき、「機能する」と言う。ギリシアはすべてのことを論理的に動かす。
 このことに対して、高橋は、別の角度から「反論」している。「機能する」に「健在」ということばをぶつけている。「健在」を動詞化すると、どうなるか。「健在する」といえるか。「健やかに/存在する」となら言えるか。このとき、「健やか」はたぶん「機能」と向き合っている。「機能」のなかに動いているのは「健やかな論理」である。「すこやかな論理」とは「合理的な論理」でもあるだろう。だから、「機能する」に向き合う形で「健在する」というとき、その「健やか」は文字とは裏腹に「健やかではないもの(論理)が/存在する」になる。言いなおせば、非論理/非合理の論理が存在する。
 「非論理/非合理の論理」とは何か。

私たちひとりひとりがポリス 表面にこやかに対応しながら
本心では敵対 つねに先方の出方を窺って 警戒怠りない

 相互には連携しない。「ひとりひとり」、つまり独立している。連携を否定している。でも、それは他人に対してであって、自分の「肉体」のなかではすべてはつながっている。「表面」と「本心」は緊密である。
 集団(都市)をまとめる「正しい論理」とは違うもの、個人的な思惑が「機能している」ということになる。個人がそれぞれかってに生きているのが「都市」である。
 「ポリスは永遠」というとき、「ポリス」は政治形態としての都市のことではない。ひとりひとりの「政治的態度」のことである。ひとはどんなときでも「政治的に振る舞う」。その「政治的なるもの」は人間の「肉体」のなかで、いつまでも「存在する」。けっして死ぬことはない。
 肉体(いのち)は永遠--そう言い換えることができる。



つい昨日のこと 私のギリシア
クリエーター情報なし
思潮社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする