11 カッサンドラに
「容れられぬ」は「拒まれる」と言いなおされている。人と神に「容れられぬ」、人と神に「拒まれる」。
この状態を「孤高」と高橋は呼ぶのだが、なんと美しいのだろう。
美しいと私は思わず書いたが、なぜ美しいのだろう。
書いてから、私は考え始める。
「容れられぬ」「拒まれる」、その結果としてカッサンドラは何になったのか。「肉体」ではなく、ことばそのものになったのだ。「孤高」とはことばのことなのだ。
ことばは、カッサンドラを「容れる」(拒まない)。カッサンドラはことばになる。
だが、同時に私は、こんなことも考える。
「予言」は、どうなったのか。
予言は、ことばである。実体のそなわっていない非現実。あるいは未生の現実。それは神とも人間とも無関係である。非現実を未生現実と言い換えてみるとわかる。ことばが現実を超えてしまっているときに、ことばの「孤高」が生まれる。ことばが現実を超えてしまった。現実はことばに追いつけない。
究極の「予言」が、このときに誕生する。
神と人に容れられず、拒まれて、カッサンドラ自身、その肉体のあり方が「予言」そのものになった。神にも受け入れられず、他の人々からも拒まれる。それは人間の究極の生き方である。人は誰でも神に受け入れられず、人に拒まれる運命にある。つまり、悲劇のなかへ人間は突き進むのだ。
それは絶対になりたくない状態である。だから拒もうとするのだが、その予言としてのカッサンドラへ人間は突き進むことしかできない。
もはや許しを乞うのはやめよ 容れられぬことをこそ
真の予言の証しとせよ 神にも人にも拒まれて
お前の孤高の眩しさは 目も開けられぬほど
「容れられぬ」は「拒まれる」と言いなおされている。人と神に「容れられぬ」、人と神に「拒まれる」。
この状態を「孤高」と高橋は呼ぶのだが、なんと美しいのだろう。
美しいと私は思わず書いたが、なぜ美しいのだろう。
書いてから、私は考え始める。
「容れられぬ」「拒まれる」、その結果としてカッサンドラは何になったのか。「肉体」ではなく、ことばそのものになったのだ。「孤高」とはことばのことなのだ。
ことばは、カッサンドラを「容れる」(拒まない)。カッサンドラはことばになる。
だが、同時に私は、こんなことも考える。
「予言」は、どうなったのか。
予言は、ことばである。実体のそなわっていない非現実。あるいは未生の現実。それは神とも人間とも無関係である。非現実を未生現実と言い換えてみるとわかる。ことばが現実を超えてしまっているときに、ことばの「孤高」が生まれる。ことばが現実を超えてしまった。現実はことばに追いつけない。
究極の「予言」が、このときに誕生する。
神と人に容れられず、拒まれて、カッサンドラ自身、その肉体のあり方が「予言」そのものになった。神にも受け入れられず、他の人々からも拒まれる。それは人間の究極の生き方である。人は誰でも神に受け入れられず、人に拒まれる運命にある。つまり、悲劇のなかへ人間は突き進むのだ。
それは絶対になりたくない状態である。だから拒もうとするのだが、その予言としてのカッサンドラへ人間は突き進むことしかできない。
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