詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

30 無名の川(嵯峨信之を読む)

2018-07-14 13:08:03 | 嵯峨信之/動詞
30 無名の川

死への途上に
大きな川が流れている
ふるさとの方角へ流れている無名の川だ

 この一連目は、こう言いなおされる。

ただひとり残つているぼくが詩に憑かれるのは
魂のなかをながれるその川の名を知ろうとするからだ
ぼくが死につよく心ひかれるのは
その川を越えていつた人々がそこに立つているからだ

 「死」と「詩」が交錯する。「憑かれる」と「心ひかれる」が交錯する。川を挟んでむきあっている。川の「ながれる」という動詞の中で出会っている。「ながれる」は移動するだから、それは「川を越える(むこうへ行く)」と交錯していることになる。
 「そこ」とは「こちらの岸」ではなく「あちらの岸(彼岸)」。川を越えた「岸」。
 彼らはなぜ、そこに「立つている」のか。「こちらの岸」を見つめるためである。
 「彼岸」から見れば、それは「ふるさとの方角へ流れている」ということになる。
 嵯峨は、こちらの岸から「ふるさとの方角へ流れている」と、一連目で書いていた。
 「ふるさと」と「死」もまた交錯する。
 名詞にとらわれるのではなく、「交錯する」という「事実」を見つめる必要がある。「交錯する」という動詞は、ことばとしては書かれていない。しかし、「事実」がそこにある。それにどんな「名前」をつけるか。
 この詩には、新しい名前をつけることが「詩を書く」という定義が隠されている。

*

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高橋睦郎『つい昨日のこと』(5)

2018-07-14 09:42:09 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
5 息子よ オレステイア

 ギリシャ悲劇を読むたびに思う。ギリシャ悲劇に恋はあるのか。正直な欲望(本能)が動いているだけなのではないか。
 本能とはけっして間違えない力のことだ。
 だが、否定される。悲劇によって。いや、悲劇がけっして消えることのない本能を明るみに出すことで、人間をあざ笑うのか。いままでも追いかけて、おまえを叩き壊してやる、と。

この乳首から飽きず吸ったのはいったい誰だ? とは
母なる者の息子に訴えかけるお決まり 最後の切り札

 「お決まり」(決まり)。動詞にすれば「決める」。何を決めるのか。自分の正直な欲望だけが正しい、と自分に言い聞かせることを決めるのだ。おまえが息子であったとしても、そんなことは気にしない。自分(本能)が正しいと決めたとき、人間は神になる。
 そしてこれはギリシャの逆説だから、これはこう言いなおすことができる。
 相手が神なら殺してもいい。人間を殺すのではない。人間を支配しようとする神を殺す。神(神)を殺して人間は自由になる。本能(欲望)を手に入れる。
 矛盾が事実の中に炸裂し、散らばっていく。

 「息子よ」と高橋は呼びかける。もちろん高橋の息子ではない。そして、息子よ、と呼びかけるとき高橋は父になるわけでもない。母になっている。母になって、息子に「さあ、殺せ」と迫っている。「性差」を超越して、いちばん生々しく動く本能となって、高橋のことばは動く。
 息子になって、殺せと迫る母と向き合っている、というのでは悲劇は「神話」に昇華しない。母が息子に呼びかけるとき、悲劇が人間を超えて神話になる。

つい昨日のこと 私のギリシア
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