未知野道「むんわん春の底が抜け」(「森羅」11、2018年07月09日発行)
未知野道とは誰か。「むんわん春の底が抜け」のなかで「告白」している。
ひらがなで書き続ける詩人。池井昌樹が『私』である。
そのひらがなを、未知野は、どんなふうにとらえているか。
私は中学生のころの池井を思い出す。「雨の日の畳」(だったと思う)。その作品にはやはり「生ぬるい」ものがあふれていた。「吐息」であったかどうかは、はっきり覚えていない。その「生ぬるい」ものは「黄色い」。
人には好みというものがある。私は「黄色」という色自体は嫌いではない。(なんといっても、私には黄色が似合う。)だが、「黄色/黄色い」という音はとても不気味に聞こえ、嫌いである。特に池井の、ゆったりした弱音で「きいろい」という声が発せられると、ぞっとする。それこそ「底知れぬ」恐怖というものだ。
「雨の日の畳」を読んだとき、私は、まだ池井の声を知らない。池井の「体型」も知らない。だが、私は、自分とはまったく異なる「肉体」の存在を感じ、ぞっとしたのだ。気持ちが悪い。
未知野(池井)は「内部」ということばをつかっているが、私には「内臓」と読めてしまう。「内部」というと「精神的」なものも指すが、私が感じるのは「精神」ではない。「内臓」そのものである。
「内臓」なんて、ふつうは、見えない。見えないから安心しているが、見るときっと「気持ち悪い」。それが動いている感じがする。
こんなに気持ちが悪いことばが詩なのか。
気持ち悪さが「空気」になって「充満して」、私はいまでもいやな気持ちになる。気分が悪くなる。「雨の日」ならば、家は閉め切っている。部屋は閉ざされている。密室だ。そこに「黄色い」息が充満してくる。
わあああああ、窒息してしまう。息苦しい。逃げ出したい。
でも池井(未知野)は、こんなふうに言う。
やっぱり「内臓」だな、と思う。「内臓」は自分自身。「恐ろしいことなど少しもなく」と言ったあと、「恐ろしくてもそのものは/自分自身である」と言いなおしているのは、池井(未知野)にも、なんらかの「畏怖」があるからかもしれない。
「肉体(いのち)」は池井(未知野)の知らないところから、池井に引き継がれ、つづいている。それが「内部(内臓)」になって、池井を生かしている。異化している、かもしれない。
気持ち悪いぞ、池井。
こんな気持ち悪い詩は嫌いだぞ、池井。
中学生にもどった気持ちで、私は、またこう書くのである。
*
評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』を発行しました。190ページ。
谷川俊太郎の『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
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未知野道とは誰か。「むんわん春の底が抜け」のなかで「告白」している。
『私』の内部は
無限の平仮名の集積だ
ひらがなで書き続ける詩人。池井昌樹が『私』である。
そのひらがなを、未知野は、どんなふうにとらえているか。
春の鶏の毛のような
それら平仮名一つびとつが
生ぬるい吐息をついたりして
『私』の内部は 底知れぬ
黄色い空気が充満している
私は中学生のころの池井を思い出す。「雨の日の畳」(だったと思う)。その作品にはやはり「生ぬるい」ものがあふれていた。「吐息」であったかどうかは、はっきり覚えていない。その「生ぬるい」ものは「黄色い」。
人には好みというものがある。私は「黄色」という色自体は嫌いではない。(なんといっても、私には黄色が似合う。)だが、「黄色/黄色い」という音はとても不気味に聞こえ、嫌いである。特に池井の、ゆったりした弱音で「きいろい」という声が発せられると、ぞっとする。それこそ「底知れぬ」恐怖というものだ。
「雨の日の畳」を読んだとき、私は、まだ池井の声を知らない。池井の「体型」も知らない。だが、私は、自分とはまったく異なる「肉体」の存在を感じ、ぞっとしたのだ。気持ちが悪い。
未知野(池井)は「内部」ということばをつかっているが、私には「内臓」と読めてしまう。「内部」というと「精神的」なものも指すが、私が感じるのは「精神」ではない。「内臓」そのものである。
「内臓」なんて、ふつうは、見えない。見えないから安心しているが、見るときっと「気持ち悪い」。それが動いている感じがする。
こんなに気持ちが悪いことばが詩なのか。
気持ち悪さが「空気」になって「充満して」、私はいまでもいやな気持ちになる。気分が悪くなる。「雨の日」ならば、家は閉め切っている。部屋は閉ざされている。密室だ。そこに「黄色い」息が充満してくる。
わあああああ、窒息してしまう。息苦しい。逃げ出したい。
でも池井(未知野)は、こんなふうに言う。
『私』の内部の平仮名は
すなわち私自身であるから
恐ろしいことなど少しもなく
恐ろしくてもそのものは
自分自身であるのだから
やっぱり「内臓」だな、と思う。「内臓」は自分自身。「恐ろしいことなど少しもなく」と言ったあと、「恐ろしくてもそのものは/自分自身である」と言いなおしているのは、池井(未知野)にも、なんらかの「畏怖」があるからかもしれない。
「肉体(いのち)」は池井(未知野)の知らないところから、池井に引き継がれ、つづいている。それが「内部(内臓)」になって、池井を生かしている。異化している、かもしれない。
気持ち悪いぞ、池井。
こんな気持ち悪い詩は嫌いだぞ、池井。
中学生にもどった気持ちで、私は、またこう書くのである。
*
評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』を発行しました。190ページ。
谷川俊太郎の『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455
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「詩はどこにあるか」4月の詩の批評を一冊にまとめました。186ページ
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注文してから1週間程度でお手許にとどきます。
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(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料250円)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
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(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料450円)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
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(3)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料250円)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
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