詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

新井高子「神の子」、ジェフリリー・アングルス「知られざるもの」

2018-07-09 10:17:17 | 詩(雑誌・同人誌)
新井高子「神の子」、ジェフリリー・アングルス「知られざるもの」(「ミて」143、2018年06月30日発行)

 新井高子「神の子」は、男には想像できないことが書いてある。原典にはルビがあるのだが省略する。

豚小屋さわがし、まっ直ぐの棒バ突っこむイータリー映画のほうァ、強姦でしょう。男のファナーティスズムでしょう。もっとふうわり抱きなんせぇ。
  乳首バ入れるがよ、
  女の獣姦は。
ちゅうちゅうちゅうちゅう、慰めてもおるがですよ、脹りきった娘の乳を、熊の子が、眼のみぇない桃色の乳飲み子が、
吸われでしもうたなぁ、しゃぶったまんま、うっつらうっつら眠りの谷へ。そうして、真黒い剛毛が生ィそろっても、鼻っこ鳴らしておるではないか、この母さんに。

  あいの子ですよ、
  人と
  獣の。
母さんが編んだ花莫蓙ひきずり、ぐずって、寝ようとしないンですがら。自分は人と思うておるがら。翌春にァ、
神の子だのに。
祭場じゅうに色とりどりの花と毒矢バまき降らし、祈って歌って、
皮ァ剥いだら、
去年のあの子が、すやすやすやすや寝でおるようだぁ、透きとおった桃色で。かき出して、乳くれんとする狂女もいっこう珍しぐはねァ。その、

  あの子がしょう、
  イータリーの教会堂の聖母さまが抱いておるのも、

 そうか、授乳することが「姦淫」か。
 直前の「もっとふうわり抱きなんせぇ。」に、私は、どきりとしてしまう。女は「ふうわりと抱く」ということを知っている。
 祭の生贄になる小熊を育てる女。自分の乳首を吸わせている。それをみた男が、女をひやかしたのだろう。そういうことに対する反論の詩なのだと思うが、「意味」ではなく、女の実感が切実だ。
 「ちゅうちゅうちゅうちゅう」という描写は、女が単に乳首を吸わせているだけではなく、小熊になって乳首を吸っている。「ちゅうちゅうちゅうちゅう」と声をかけて、小熊を励ましている。「慰めておるがですよ」と新井は書いているが。
 「眼のみぇない桃色の乳飲み子」も描写というよりも、その「子」そのものになっている。女には、熊の子が熊には見えない。目が見えないのは女の方なのだ。一体になると何も見えなくなる。
 これは「姦淫」ではなく、セックスの愉悦であり、エクスタシーだ。「獣姦」と新井は書くが、それは「獣姦」ということば、あるいは「強姦」ということばをつかう男に対する抗議だろう。女には「姦通」ということばはない。「ふうわりと抱く」だけがある。
 満足したあとの「うつらうつら」がとてもいいなあ。

 この「獣姦」によって生まれた子、あるいは「獣姦」によって生まれ変わった子を「あいの子」と新井は呼んでいる。「間の子」と書くのがふつうなのかもしれないが、「愛の子」という漢字をあてたくなる。
 「ふうわり抱かれて」、「愛の子」は「自分を人だと思うておる」。これも実は熊の子のことばではない。その熊を見ている女のことばである。女が熊の子になっている。いれかわっている。
 いや、このいれかわっている、は正しくないなあ。
 断定できない。固定できない。
 熊の子が「自分は人だと思うておる」だけではなく、女は熊の子を「自分の子供(人)だと思うておる」。そして、これは、相対化できない。私はとりえあず、そういうふうにことばにしたが、相対化も固定化もできない。

去年のあの子が、すやすや寝でおるようだぁ、透きとおった桃色で。かき出して、乳くれんとする狂女もいっこう珍しぐはねァ。

 は、そう思わない方が、そうしない方が「狂っている」と告げている。
 「現実」をことばで「相対化」、あるいは「固定化」しようとするのは、完全に間違っている。
 最後の、

あいの子がしょう、

 の「が」は、標準語(?)では「で」ということになるのか。
 人間はすべて、自分を越境する。それが「愛の子」を生み出す。どんなときにも「愛の子」しかいない。
 女はいつも「愛」に生きている。女は「神」だ、というと意味になりすぎる。意味にならないように、標準語ではなく「方言」で新井は書いている。「標準語」のよって「整理・合理化」されてたまるものか、と言っているように思う。

 と、書きながら、私のしたことは「標準語化」につながるなあ、と悩む。



 ジェフリー・アングルス「知られざるもの」。

私たちは
消えたものの
墓地の中に住む
死んだ体が死んだ体に重なり
亡骸の中 家を造る

 この一連目が「説明」をはさみながら変化していく。

私たちは
消えたものの
墓地の中に住む
死んだ概念が死んだ概念に重なり
亡骸の中 思想を造る

私たちは
消えたものの
墓地の中に住む
死んだ名前が死んだ名前に重なり
亡骸の中 言語を造る

 うーむ。
 省略したが、「説明」がとても合理的で、こういうのが「男の論理」なんだなあ、と思う。あまりにも男っぽい。
 「男根主義」だけが男なのではなく、「論理による整理/合理化」もまた、男の生み出した弊害なのだと気づかされる。
 ジェフリー・アングルスはアメリカ人。日本語に触れることで(日本語と姦通することで)生み出したものが「論理」だとすると、これは少し、こわい。「翻訳」は、どうしても「論理的」になってしまう。あるいは「論理」しか翻訳できないということか。「論理」は説得力があるが、それは「独裁」に傾くときもある。
 ジェフリー・アングルスのことばが「独裁的」というのではないのだが。

 どうやって「意味(論理の合理化)」を「あそび(ゆるみ)」のあるものにしていくか、論理にならない部分を含ませていくか、ことばをいままでとは違う視点からとらえなおさなければならない時が来ていると思う。





*

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