ジョセフ・コジンスキー監督「オンリー・ザ・ブレイブ」(★★★★★)
監督 ジョセフ・コジンスキー 出演 ジョシュ・ブローリン、マイルズ・テラー、ジェニファー・コネリー
ひとはなぜ危険な仕事をするのか。そのことが少しずつ明らかにされていく。
ジェニファー・コネリーが世話をする傷ついた白い馬が、強い伏線になっている。傷ついているが、ほんとうは美しい馬。同じように、人間は皆傷ついている。その傷から回復するために、ひとは懸命に生きている。
生きているうちに、見えてくるものが変わる。見えてくるものが変わると、ひとそのものも変わってしまう。これはたいへんむずかしい問題だ。新しいものが見えるようになった自分、その生き方を貫くか、新しく見えてきた世界を選びとるか。つまり、自分の生き方を変えるか。
マイルズ・テラーが演じる薬物中毒の若者の変化が、登場人物全員の変化を象徴している。厳しい仕事の中で自分自身を更生させていく。そうするうちに、「家族の幸せ」が見えてくる。危険な仕事をしていては「家族」であることができない。自分を立ち直らせてくれた「仕事」を生きるべきなのか、それとも新しい「家族」という世界を選び取るべきなのか。
ジョシュ・ブローリンはかたくなだ。自分を支えているものが「仕事」だと認識している。「家庭」を選びとり、それを優先させると「生き方」が変わってしまう。自分でなくなってしまう。
だが、そういう「生き方」は周囲のひとを傷つけてしまう。
ひとは、自分の可能性を切り開くために生きている。「生き方」を変えるために生きている。変えることができるのに、変えないのは、可能性の否定になる。人間であることの否定ともいえる。
ね、むずかしいでしょ。
ちょっと哲学的すぎるかもしれない。映画には向かない「内容」である。でも、これを映画にしてしまうんだなあ。すごい力業だなあ。
危険がいっぱい、つまりはらはらどきどきのアクションに向いた題材なのだが、山火事をとても「冷静」に描いている。訓練と、延焼防止の作業を、ていねいに描いている。消すというよりも、延焼を防ぐのが仕事。とても「地味」なのだ。この「地味」を、ありふれた日常のように描いている。いや、「日常」として描いている。
「実話」なので、クライマックスは知っているひとにはわかっていることかもしれないが、私は「事実」を知らなかったので、あまりに淡々とした展開、予想外のことが起きない(ハッピーエンドではない)ということに衝撃を受けた。悲劇なら悲劇で(あるいは悲劇だからこそ)、もっと「劇的」に表現できるはずだが、いつのも「日常」のように描いている。
その悲劇のあとのもうひとつのクライマックスでも、マイルズ・テラーがたいへんむずかし役どころを演じている。自分の存在が他人にどんな影響を与えるか。彼は知らない。自分の「欲望」にしたがって行動するが、それは多くのひとの「希望」を一瞬のうちに叩き壊す。ことが起きてから、マイルズ・テラーは自分がしたことの「意味」を知る。ひとは、いつでも「意味」をあとから知るのだ。
ほんとうの最後の最後、ジェニファー・コネリーが傷が治った馬に乗って荒野を行く。遠くの山に野生の馬が走っている。ひとは、自分の「野生」を生きるしかないのである。それを実ながらジェニファー・コネリーは、人間は自分の「野生」を生きるものだと納得したように感じた。
(2018年07月08日、ユナイテッドシネマキャナルシティ・スクリーン9)
*
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映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
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監督 ジョセフ・コジンスキー 出演 ジョシュ・ブローリン、マイルズ・テラー、ジェニファー・コネリー
ひとはなぜ危険な仕事をするのか。そのことが少しずつ明らかにされていく。
ジェニファー・コネリーが世話をする傷ついた白い馬が、強い伏線になっている。傷ついているが、ほんとうは美しい馬。同じように、人間は皆傷ついている。その傷から回復するために、ひとは懸命に生きている。
生きているうちに、見えてくるものが変わる。見えてくるものが変わると、ひとそのものも変わってしまう。これはたいへんむずかしい問題だ。新しいものが見えるようになった自分、その生き方を貫くか、新しく見えてきた世界を選びとるか。つまり、自分の生き方を変えるか。
マイルズ・テラーが演じる薬物中毒の若者の変化が、登場人物全員の変化を象徴している。厳しい仕事の中で自分自身を更生させていく。そうするうちに、「家族の幸せ」が見えてくる。危険な仕事をしていては「家族」であることができない。自分を立ち直らせてくれた「仕事」を生きるべきなのか、それとも新しい「家族」という世界を選び取るべきなのか。
ジョシュ・ブローリンはかたくなだ。自分を支えているものが「仕事」だと認識している。「家庭」を選びとり、それを優先させると「生き方」が変わってしまう。自分でなくなってしまう。
だが、そういう「生き方」は周囲のひとを傷つけてしまう。
ひとは、自分の可能性を切り開くために生きている。「生き方」を変えるために生きている。変えることができるのに、変えないのは、可能性の否定になる。人間であることの否定ともいえる。
ね、むずかしいでしょ。
ちょっと哲学的すぎるかもしれない。映画には向かない「内容」である。でも、これを映画にしてしまうんだなあ。すごい力業だなあ。
危険がいっぱい、つまりはらはらどきどきのアクションに向いた題材なのだが、山火事をとても「冷静」に描いている。訓練と、延焼防止の作業を、ていねいに描いている。消すというよりも、延焼を防ぐのが仕事。とても「地味」なのだ。この「地味」を、ありふれた日常のように描いている。いや、「日常」として描いている。
「実話」なので、クライマックスは知っているひとにはわかっていることかもしれないが、私は「事実」を知らなかったので、あまりに淡々とした展開、予想外のことが起きない(ハッピーエンドではない)ということに衝撃を受けた。悲劇なら悲劇で(あるいは悲劇だからこそ)、もっと「劇的」に表現できるはずだが、いつのも「日常」のように描いている。
その悲劇のあとのもうひとつのクライマックスでも、マイルズ・テラーがたいへんむずかし役どころを演じている。自分の存在が他人にどんな影響を与えるか。彼は知らない。自分の「欲望」にしたがって行動するが、それは多くのひとの「希望」を一瞬のうちに叩き壊す。ことが起きてから、マイルズ・テラーは自分がしたことの「意味」を知る。ひとは、いつでも「意味」をあとから知るのだ。
ほんとうの最後の最後、ジェニファー・コネリーが傷が治った馬に乗って荒野を行く。遠くの山に野生の馬が走っている。ひとは、自分の「野生」を生きるしかないのである。それを実ながらジェニファー・コネリーは、人間は自分の「野生」を生きるものだと納得したように感じた。
(2018年07月08日、ユナイテッドシネマキャナルシティ・スクリーン9)
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