詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

高橋睦郎『つい昨日のこと』(17)

2018-07-25 13:57:28 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
                         2018年07月26日(木曜日)

17 選択 テルモピュライ

ねがわくは 守って一兵残らず滅び果てても
数に委せて攻め滅ぼす側には なりたくはないもの
とりわけ 敵に間道を内通する裏切り者には
どれも 可能性としてのきみ自身

 「可能性」ということばのまえで私は立ち止まる。「攻める側に立つか」「裏切り者になるか」。どちらも「生き残る」ことを前提としている。どちらを選ぶか、を選ぶことが「できる」と考えると、たしかに「可能性」ということばが出てくる。「なりたくはないもの」ということばを借りて言いなおすと、どちらに「なるか」、その「可能性」は「きみ自身」にまかせられている、と読み直すことができる。
 しかし、私は、つまずく。
 これは「可能性」なのか。

 「可能性」の反対のことばはなんだろうか。

 「必然性」だ。どちらの側に立つか、どちらの側になるか。それは「選択」できるものではない。選択できない。「必然」である。決定されている。運命によって、ではなく、本能によって。「生きる(生きたい)」という本能、欲望に誰も逆らうことはできない。
 「可能性」ということばは、たぶん、第三者が言うことである。
 「悲劇」の場合なら、観客が言うことである。
 「可能性」と口にしながら、しかし、観客は「可能性」を叩き壊す「生きる欲望」に官能をふるわせる。「悲劇」が感動的なのは、いつもそれが「本能」の「必然」を明るみに出すからだ。





つい昨日のこと 私のギリシア
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高橋睦郎『つい昨日のこと』(16)

2018-07-25 12:20:15 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
16 英雄嫌い 反アレクサンドロス

英雄が嫌いだ 英雄は私たちなんか愛してはいないから

 と始まる詩は、途中で少し転調する。

英雄が出なければ世界は変わらない という輩があるが
世界が変わるために殺されたのでは たまったものではない
変わらなくっていいんだ 世界も 私も いまのまんまで

 「愛していない」「変わらない」という「ない」を含んだことばが、引用しなかった行を含めて何度も出てくる。そのことばがリズムをつくっているのだが、突然「変わるために」という「ない」を含まないことばが出てくる。そのあとで、再び「たまったものではない」と「ない」が登場する。さらに「変わらなくっていいんだ」と「ない」を「いい」で肯定する。
 この動きがおもしろい。
 「変わる」という「ない」を含まないことばが登場することで「ない」を肯定する力が強くなる。

そんなに変えたければ 勝手に自分の世界だけ変えて
自分の世界ごと 退場してくれ 私たちに関わりなく

 最後に、もう一度「なく」(ない)が強調される。
 「ない」は「無名者」の「無」につながる。あるのは「ない/無」のつながりである。「ない」に身をよせる高橋がいる。


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