2018年07月26日(木曜日)
17 選択 テルモピュライ
「可能性」ということばのまえで私は立ち止まる。「攻める側に立つか」「裏切り者になるか」。どちらも「生き残る」ことを前提としている。どちらを選ぶか、を選ぶことが「できる」と考えると、たしかに「可能性」ということばが出てくる。「なりたくはないもの」ということばを借りて言いなおすと、どちらに「なるか」、その「可能性」は「きみ自身」にまかせられている、と読み直すことができる。
しかし、私は、つまずく。
これは「可能性」なのか。
「可能性」の反対のことばはなんだろうか。
「必然性」だ。どちらの側に立つか、どちらの側になるか。それは「選択」できるものではない。選択できない。「必然」である。決定されている。運命によって、ではなく、本能によって。「生きる(生きたい)」という本能、欲望に誰も逆らうことはできない。
「可能性」ということばは、たぶん、第三者が言うことである。
「悲劇」の場合なら、観客が言うことである。
「可能性」と口にしながら、しかし、観客は「可能性」を叩き壊す「生きる欲望」に官能をふるわせる。「悲劇」が感動的なのは、いつもそれが「本能」の「必然」を明るみに出すからだ。
17 選択 テルモピュライ
ねがわくは 守って一兵残らず滅び果てても
数に委せて攻め滅ぼす側には なりたくはないもの
とりわけ 敵に間道を内通する裏切り者には
どれも 可能性としてのきみ自身
「可能性」ということばのまえで私は立ち止まる。「攻める側に立つか」「裏切り者になるか」。どちらも「生き残る」ことを前提としている。どちらを選ぶか、を選ぶことが「できる」と考えると、たしかに「可能性」ということばが出てくる。「なりたくはないもの」ということばを借りて言いなおすと、どちらに「なるか」、その「可能性」は「きみ自身」にまかせられている、と読み直すことができる。
しかし、私は、つまずく。
これは「可能性」なのか。
「可能性」の反対のことばはなんだろうか。
「必然性」だ。どちらの側に立つか、どちらの側になるか。それは「選択」できるものではない。選択できない。「必然」である。決定されている。運命によって、ではなく、本能によって。「生きる(生きたい)」という本能、欲望に誰も逆らうことはできない。
「可能性」ということばは、たぶん、第三者が言うことである。
「悲劇」の場合なら、観客が言うことである。
「可能性」と口にしながら、しかし、観客は「可能性」を叩き壊す「生きる欲望」に官能をふるわせる。「悲劇」が感動的なのは、いつもそれが「本能」の「必然」を明るみに出すからだ。
つい昨日のこと 私のギリシア | |
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