詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

谷川俊太郎「トゲ」

2018-07-27 11:57:57 | 詩(雑誌・同人誌)
谷川俊太郎「トゲ」(朝日新聞夕刊、2018年07月25日)

 谷川俊太郎「トゲ」はほんとうにトゲのある作品だ。

小鳥が囀っている
風が木の梢を揺らしている
その上の空

ヒトが創ったものは何ひとつない
すべては自然に生まれたのだ
私の胸は無言の感嘆詞でいっぱいだ

ああ!と言わせる存在を
限りない言葉に満ちた沈黙を
ただ一つの名が呼ぶことが出来るだろうか

すべては自然に属している
ただ「神」と呼ばれるものだけが
自然に宿りながら自然ではない

ヒトの言葉は自然に刺さったトゲ
バラのトゲが原因でリルケは死んだが
この時代の詩人はそれと気付かずに

言葉のトゲで
死ぬ

 四連目が強烈だ。
 私は「神」の存在を信じていない。「神」というのは人間がつくりだした概念(単なることば)だと思っているので、この四連目を読んで衝撃を受けるわけではない。「内容/意味」ではなく、こう書いてしまうことに、「皮肉の毒(トゲ)」を感じる。
 「小鳥」も、実は「神」とかわりはない。人間が「小鳥」と呼ぶから、それが「小鳥」として存在するだけだ。「囀る」という動詞にしたって、人間が「囀る」ということばをつかうから、「囀る」があるだけである。
 どんな具体的なものも「ヒトが創った」ものだと私は感じている。
 「神」と「小鳥」と、どこが違うかといえば、小鳥は見ることができる。「囀る」という動詞を真似ることができる。小鳥のように飛ぶことはできないが、飛行機を創り出して小鳥よりも高く、遠くまで飛ぶことができる。小鳥から学んだものを生かして、小鳥を超えてしまうことができる。「肉体」を動かしながら、「肉体の限界」を超えることができる。人は何かを創ってしまう存在なのだ。(私自身が飛行機を創ったわけではないが。)
 「神」は、どうか。見ることができない。何を真似ることができるのか、わからない。きっと人間が創り出した「理想(生き方)」という存在しないものへ向けて肉体を整えていくことに役立っているのだろうけれど、私はこういう「具体的」ではないものは、納得ができないので、それ以上は考えない。つまり「神なんて存在しない」「神は誰かが誰かを都合よく動かすために考え出した方便(考え方)にすぎない」と断定してしまう。

 あ、脱線したかな?

 四連目を強烈だと感じるのは、この「神」を「自然」と対比し「自然ではない」と言っていることである。「自然」でなければ、何か。「人工物」だ。「ヒトが創ったもの」だ。
 しかし。
 「神」ということば(方便)は「自然」と対比させるものなのか。
 ことば(方便)はことばと対比させないことには、その「方便(ことば)」が抱え込んでいるものがつかめないのではないか。
 対比させるなら、「自然」ではなく「ことば(言葉、と谷川は書いている)」ではないか、と思う。
 「呼ぶ」という「動詞」が三連目にある。「名」という名詞がある。「名を呼ぶ」。その前に「名をつける(名づける)」があるはずだ。「自然」は「自然」と名づけたとき、「自然」と読んだときから「自然」であり、それ以前は「自然」ではない。
 「自然は自然ではない」。それなのに「自然」をそのまま肯定しておいて、「神は自然ではない」というのは、論理的に不自然である。

 こういう私の書き方は、それこそ「トゲ」のようなものか。

 『聴くと聞こえる』の感想に書いたことだが、「ことば」と「自然」のあり方が、私と谷川では正反対である。谷川は「ことば」を先に覚えた。そのあと「自然」を知った。私は「自然」があることを先に知った。「ことば」は小学校に入るまでは(入学式の前日、父親に名前をひらがなで書くということを教えてもらうまでは)、存在しなかった。「名を呼ぶ」ということはあったが、それは「声」であって「ことば」ではなかった。ことばを覚える前には、「小鳥」というおしゃれなことばはなく「すずめ」や「つばめ」があった。そして、「すずめ」「つばめ」と発せられる「声」を聴くとき、その「声」を発するひとの「肉体」が感じているものを感じていた。「ことば」は、何と言えばいいのか、「関心(注意)」をある方向に向けるためのもの、ある方向を一緒に向くためのもの、その方向に向かって「自然」そのもののなかへ入っていくことだった。
 「神」のように、ことばのなかのことば、ことばのなかへ入っていくためのことばは、もっともっとことばを知った後ではじめて出会うことばであって、絶対に「自然」とは向き合わない。
 
 書いているうちに、だんだん何を書いているのかわからなくなるが、「神」と「自然」の関係を指摘した行に、私は、「理解を超える何か(毒のトゲ)」を感じた。私にだけ毒(トゲ)なのか、あらゆる読者にとってトゲなのかわからないが。

 こういうことに「結論」はない。私はもともと結論を目指していないので、こんな具合にいいかげんに終わる。書きたいことがあったが、だんだんわからなくなり、ことばが動かなくなったら、そこで感想をやめる。きょうは、ここまでしかことばが動かない。



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高橋睦郎『つい昨日のこと』(19)

2018-07-27 11:49:36 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
19 アルキビアデスに

美しい者がどこまで醜くなれるかを きみは身をもって証明した

 と詩は始まる。冒頭の「美しい」はアルキビアデスの外形(家柄と体貌)のことだ。「醜い」は行動のことである。美しさは再現されず、行動の醜さだけが詩のことばを動かしていく。醜い行動(人から称讃されない行動)を取りつづけた、その最後。

まる裸で跳び出しざま槍と矢とで貫かれた してこと切れたのちも笑止千万
勃ちっぱなしだったとか 醜さも極まれば美しさを凌駕していっそ眩しいと

 死んだあとも勃起したままというのは、アルキビアデスの生涯を象徴するようだ、醜態を曝していてみっともない、ということなのだが。
 だが「美しさ」と「醜さ」は、そんなに簡単に振り分けできない。
 人は勃起を醜いと感じるだけだろうか。勃起を見て、それを語り継ぐとき、そこには「羨望」がある。羨望の対象は、いつでも「美しい」。勃起は醜くれば醜いほど「美しく」見える。
 詩は「美しい者がどこまで醜くなれるか」と始まったが、「醜いものがどこまで美しくなれるか」を書いているように見えてしまう。勃起はいつでも眩しい。「眩しい」ものは、いつでも美しい。言い換えると、人はいつでも眩しいものにこころを引きつけられる。眩しいものは、何かを「凌駕している」からこそ眩しい。

醜さも極まれば美しさを凌駕していっそ眩しい

 否定と肯定が「凌駕する」という動詞の中で逆転する。この激しい運動が美しい。
つい昨日のこと 私のギリシア
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